この記事の公開日:2023.04.29
▲田園の中に布師田を象徴する山(御殿山)が鎮座しており、そこにはこの地の歴史を物語る金山城跡がある。
▲城は山頂(標高113.6m)位置にあり、国分川を眼下に臨む要害堅固な城で遠くが見渡せる格好の位置にあった。
▲現在では、高知市の埋蔵文化財包蔵地となっている戦国時代の遺跡でもある。詰の段(本丸)・二ノ段・三ノ段・四ノ段・空堀・堀切・曲輪などの遺構がある。
▲金山城跡には、旧布師田小学校跡地の横から登っていく。約20分の道のりだ。
▲山道に入ってまず出迎えてくれるのが、植栽されたハランである。葉に殺菌作用があるので料理の仕切りや、土佐名物:皿鉢料理などに添えられている。現在、コンビニやスーパーなどのお弁当に入っているのは、プラスチック製のハラン擬き(※この場合バランと呼ぶ)である。なお、ここのハランは勝手に採取してはダメなもの。
▲ハランの林を抜けるとすぐ誘導立札が出迎えてくれる。群生する孟宗竹は、かつて食用として植栽されたものである。
▲山道は地元有志たちにより手入れされているが、風雨などが原因で樹木は絶えず朽ちていき、行く手を遮っている。(※跨いだり潜ったりしながら進むことは出来る)
山道の途中では…
▲所々に掲げられた表示板。現在位置の目安となってとても心強いが、残念ながら樹木が生い茂りここから岡豊城跡(南国市:岡豊山)を眺めることは出来なかった。
▲その岡豊城跡と金山城跡の位置関係はこんな感じ。双方の間隔は2.5kmほど。
▲金山城城主は、細川氏の末流である石谷民部少輔源重信である。近隣地域の城が長宗我部国親(元親の父親)によって滅ぼされていく姿を間近に見て、降伏したと伝えられている。その後は、岡豊城を中心にした城の防御と周辺進出の拠点となっていった。
▲参考までに…金山城は掘っ立て柱に藁ぶき屋根だったと言われているが、岡豊城(櫓)はこんな感じ(※右の写真)だったと思われる。現在、岡豊城跡には建物を物語る礎石のみが遺っており、当時の規模を物語っている。
▲城郭は一般的に、尾根の高いところから詰ノ段→二ノ段→三ノ段→四ノ段と呼ばれ、それぞれを結ぶ通路は攻守の都合上迷路になっている。
▲誘導板に沿って進んでいくと、ついに詰ノ段へたどり着いた。
▲やや歪な楕円形をした詰ノ段。周囲には高さ1.3~1.6mの土塁が巡らされている。土塁は、敵や動物などの直接侵入を防ぐため斜めに盛られた。
▲中央部に大きな樹木が鎮座して眺望を遮っていたのが残念。本来なら、眼下の国分川や集落もハッキリ見えてかなり眺望が良い所だろう。
金山城跡のある 今昔風景
▲いつの世も、金山城跡(御殿山)は変わらない姿で人々の暮らしを見守っていてくれる。
八頭城跡
▲布師田にあったもうひとつの戦国時代の城が八頭城(跡)である。この城主も、細川氏の末流ある石谷民部少輔源重信だった。また、近辺には城・土居・堀ノ内など関連の地名が今も遺っている。
▲城の名称だが、城にあった居館を八人の武将が守っていたことに由来する。現在は一般民家となっているが、その庭には二つの祠が遺っている。(※項目下のイラスト入り写真を参照)
▲城の近くを流れる菱池川が自然の堀の役目を果たしていた。今も田畑に豊潤な水を与え続けている。
コメント
日本全国に古墳は15~16万基ほどもあって城跡も何万とあると聞いて数の多さにビックリしたことがあるけどその伝でいくと今は長閑な田園地帯の布師田にも城跡が二カ所あっても何ら不思議じゃないのかも
狭い国土のあちこちで角突き合わしての群雄割拠
攻めて攻められ身構えてというダイナミックな時代があったんや大河ドラマの話の種は尽きんねえ
何に突き動かされ何が面白くて何が悲しゅうてほたこえまわらんといかざったのかねえ
老生のような腑抜けには先祖たちの衝動・激情が理解不能だわ
現代人は城といえば天守閣が第一感なんやけど金山城はイメージ図からの説明によると藁葺き屋根に掘っ立て柱という砦小屋のような感じ?
それでも二ノ段三ノ段四ノ段などもあったというんやから天守閣が造られだす前の時代に相応の役目を果たす城やったんやろうねえ
親分の居る岡豊城とのやり取りは「のろし」かあ!
煙が上がる場面は見た目にはのどかでも大事緊急事態クワバラくわばら
ブログ主はわざわざ金山城跡まで登ったとの事やけど道筋の画像や説明を見ても城マニアでもないと行かないような城跡じゃないの?やるねえ!
地元の人でも遠目に見上げるのが関の山で登るのはなんか二の足を踏むんじゃないかと思うような道中に見えたよ
地元では登坂は誰れもかれもなの?
八頭城跡は平野の中なんよね
周りが平地で四六時中緊張を強いられそうな位置取りの砦だったのかなと勝手に想像
近隣に往時の名残がある地名が残っているとか
城の姿は消えても地名に戦国時代を偲ぶよすがが残っているのはスゴイことやね
布師田のシンボルとも言える小さな山。
かつてそこには城があり、すぐ東方に位置する(土佐を治めていた)岡豊城と密接な関係があったことを初めて知りました。
(※田園の中にももう一つの城があったという事実も含め)幼い頃から毎日のように眺めていた山に城があったなんて…。
地元に暮らしていても、知らないことは多いんですね。
小さい頃に学校で地元の事について学ぶことは重要ですね。
そうすれば皆が地元に愛着がわき、その後の人生の歩み方にも影響を与えるのではないでしょうか。
今回、人生後期にさらに年月を経た歳になりいい経験ができました。
大いに知的好奇心を刺激された探訪でした。