岩崎彌太郎が生まれ育った処

安芸市
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この記事の公開日:2023.05.12

岩崎彌太郎いわさきやたろうは、1835年に県東部:安芸市あきしの長閑な田園地帯の一角で、岩崎家長男として誕生した。はとても貧しかったが、反骨精神が人一倍強い持ち主だった。後に海運業を興し「東洋の海上王」と呼ばれ、三菱グループ築いた話はあまりにも有名だ。(※享年51歳)

今回はその彌太郎生家跡を訪ねてみた。(※黄色い点線=生家跡・白い点線伊尾木洞)

台座1.1m・像の高さが3.3mある銅像は、右腕大きく広げた印象的なポーズをとっている。これは「日本は我の庭なり」という彌太郎信念表現されている。(※足元には日本地図)

銅像土台には彌太郎関連したシーンが描かれ、人物像分かりやすくなっている。(※広げた右腕すぐ先には彌太郎生家がある)

一般無料公開されている 生家跡

彌太郎生家は(現)1,200坪周辺土地を購入しながら広げてきた。現在は、所有者好意により無料一般公開されている。情緒あふれる藁葺わらぶき屋根当時と変わらぬ面影を今に伝えている

母屋のすぐには三菱グループ各社協賛した記念碑建立され、巨大グループ創始者であることを物語る。

中庭には、彌太郎少年が日本地図を模して造った石組みが今も残っている。明治の政商として巨万の富を築いた人物原点は、彼が少年時代に作った石組みにあったのかもしれない。

生まれ育った 母屋とは…

現在の建築様式では珍しい見事な藁葺屋根。下から眺めると、その迫力圧倒されてしまう。(※個人の感想です)

木造平屋で建坪30坪母屋は、(8畳)・居間(4畳半×2間)・茶の間(9畳)・土間(兼台所)等で構成されている。(※風呂かわやは別棟)

建物奥(左写真:中央障子の奥)の4.5畳の(納戸)で、三菱3代社長(彌太郎・彌之助・久彌)が生まれた。ところで(左写真)画面右下の床下には、貯蔵していた(右写真)がある。

建物は 歴史的に重要なものばかり

母屋をはじめ、敷地内の「土蔵練塀ねりべいほこら」等7点が、登録有形文化財指定されている。その土蔵には、土佐ならでは特徴二つ見受けられる。

一つ目は、壁面に用いられている土佐漆喰しっくい。これは石灰ワラスサ練り合わせたもので、のりを使っていないため溶け出すことがない耐久性抜群漆喰が多い土佐誕生し、後に全国に広まっていった。

二つ目は、土蔵壁面に設けられた水切り瓦が直接壁に掛る力弱くし、壁面保護する役割がある。雨風が強い土佐では非常に重要で、寿命何倍にも伸ばす働きがあるといわれている。

▲ご覧の消防ポンプ車土蔵の中保管されていたもの。箱型タンクを入れ、横木上下させることでが噴き出る龍吐水りゅうどすいと呼ばれるもの。江戸~明治時代に用いられた消火道具である。

竹垣の周りにも 見所が…

▲①正門横竹垣高さ目線より低いので、路地から眺める光景味わいがある。

▲②ぐるっと東側へ回り込んでみた。最初、駐車場から生家方向一直進したときには気づかなかったが、銅像背面から眺める光景はとても味わいがある。(※個人の感想です)

▲③さらに回り込んで裏側(北側)へ来てみた。裏側だと、より敷地の広さが感じられる。此処まではあまり足を運んで来ない。ゆえに、印刷物ネットでほとんど紹介されない珍しい光景である。

▲④ぐる~っと一周してきた。(※右:大きな樹木の奥が正門) それにしても広い‼

生家前には 生命力溢れる自然の姿が…

生家前に根を張るムクの樹樹齢200年。幹の半分台風破損していたが、それでも青々とした葉を茂らせている姿自然生命力偉大さを感じた。

見学を終えた生家前で小休止。静かな環境の中で、しばし余韻浸り癒されてきた。

ところで 地元に彌太郎記念館がないのは 何故⁉

▲実は、地元彌太郎記念館ない理由は、彌太郎母親遺言だった「人は成功しても質素であるべし」を守ったから。ちなみに現代公開されている資料は、遺族市町村等へ寄贈したものばかりである。

彌太郎亡き後遺族遺志引き継ぎ地元のために小学校建設基金提供した。それが、この学校(安芸市立土居小学校)の前身である。

岩崎家の家紋について

有名三菱マークスリーダイヤ周囲があるわけは、当時三菱マークは既に認知されていたのだが、三つの菱だけ掲げる仰々しくなるため(母親の遺言を守り抜くため)、〇で囲むことで家紋のように見せることにしたから。

▲ところで三菱マークは、土佐藩主:山内家の家紋三葉柏みつばかしわと、岩崎家の家紋:重ね三階菱さんがいびしを合わせた(デザイン化された)もの。

肉眼では分かりにくいが、カメラのレンズを通すとご覧の通り土蔵屋根の上にある鬼瓦には岩崎家家紋(三階菱)が描かれていた。また土蔵は、三階菱木片修繕(穴埋め)されていた。ところで大河ドラマ「龍馬伝」放映から十数年。今では、一時の彌太郎ブームも落ち着いたため、ゆっくり見ながら、彌太郎がまだ名をあげる前時代思いをはせることが出来る⁉

コメント

  1. 吉之助 より:

    岩崎弥太郎は土佐の郡部に生まれ育ち並外れた反骨精神で明治時代に頭角を現した有名財閥の創始者
    まあ政商と呼ばれた成功者だものいい事ばかりしてきたとは思われないよね
    大望を抱き決断力や実行力が並外れ次々に宿願を果たして行った人物やろうけどそうなるとどうしても毀誉褒貶が激しくなるのは避けられないよね
    そのスケールの大きさは市井の徒である老生には目眩がするような存在やけど「子のたまわく」で育ち明治の御代で功過相半ばした人物たちは岩崎弥太郎にせよ幸徳秋水にしても総じて親孝行であったところが唸らされるねえ
    かなわんわ
    やっぱり教育或いは時代の空気なんかねえ

    岩崎弥太郎生家跡の本編は三菱のマークの由来やら土佐漆喰・水切り瓦の効能のほか見学訪問者が見逃しがちな生家裏側に注目して今では珍しくなってきた竹垣景色の紹介など見どころ知りどころいっぱいやったわ

    • OIRA OIRA より:

      詳しくご覧いただきありがとうございます。

      彌太郎の功績については既にいろんなもので紹介されており、皆さんご存じだと思うので、
      今回はその人物を創った(幼き頃に彼の生き方に大きな影響を与えた)環境に視点を当ててみました。

      今回の記事は独自の取材により、案内板や観光ガイドブック等では触れられないエピソードも盛り込んでいます。
      そして度々紹介されるアングルを押さえるのはもちろん、滅多に紹介されないアングルまで網羅してみました。

      竹の生垣や水切り瓦などについては、さらに土居廓中の記事でも触れています。
      合わせてご覧いただければ、この地域ならではの特徴がよりお分かりいただけることと思います。