この記事の公開日:2023.05.12
▲岩崎彌太郎は、1835年に県東部:安芸市の長閑な田園地帯の一角で、岩崎家の長男として誕生した。家はとても貧しかったが、反骨精神が人一倍強い持ち主だった。後に海運業を興し「東洋の海上王」と呼ばれ、三菱グループの礎を築いた話はあまりにも有名だ。(※享年51歳)
▲今回はその彌太郎の生家跡を訪ねてみた。(※黄色い点線=生家跡・白い点線=伊尾木洞)
▲台座1.1m・像の高さが3.3mある銅像は、右腕を大きく広げた印象的なポーズをとっている。これは「日本は我の庭なり」という彌太郎の信念が表現されている。(※足元には日本地図)
▲銅像の土台には彌太郎に関連したシーンが描かれ、人物像が分かりやすくなっている。(※広げた右腕のすぐ先には彌太郎の生家がある)
一般無料公開されている 生家跡
▲彌太郎の生家は(現)1,200坪、周辺の土地を購入しながら広げてきた。現在は、所有者の好意により無料で一般公開されている。情緒あふれる藁葺屋根が当時と変わらぬ面影を今に伝えている。
▲母屋のすぐ側には三菱グループ各社が協賛した記念碑が建立され、巨大グループの創始者であることを物語る。
▲中庭には、彌太郎少年が日本地図を模して造った石組みが今も残っている。明治の政商として巨万の富を築いた人物の原点は、彼が少年時代に作った石組みにあったのかもしれない。
生まれ育った 母屋とは…
▲現在の建築様式では珍しい見事な藁葺屋根。下から眺めると、その迫力に圧倒されてしまう。(※個人の感想です)
▲木造平屋で建坪30坪の母屋は、表(8畳)・居間(4畳半×2間)・茶の間(9畳)・土間(兼台所)等で構成されている。(※風呂と厠は別棟)
▲建物奥(左写真:中央障子の奥)の4.5畳の間(納戸)で、三菱3代の社長(彌太郎・彌之助・久彌)が生まれた。ところで(左写真)画面右下の床下には、芋を貯蔵していた穴(右写真)がある。
建物は 歴史的に重要なものばかり
▲母屋をはじめ、敷地内の「土蔵・練塀・厠・祠」等7点が、国の登録有形文化財に指定されている。その土蔵には、土佐ならではの特徴が二つ見受けられる。
▲一つ目は、壁面に用いられている土佐漆喰。これは石灰とワラスサを練り合わせたもので、のりを使っていないため雨に溶け出すことがない。耐久性抜群の漆喰は雨が多い土佐で誕生し、後に全国に広まっていった。
▲二つ目は、土蔵の壁面に設けられた水切り瓦。雨が直接壁に掛る力を弱くし、壁面を保護する役割がある。雨風が強い土佐では非常に重要で、壁の寿命を何倍にも伸ばす働きがあるといわれている。
▲ご覧の消防ポンプ車は土蔵の中に保管されていたもの。箱型のタンクに水を入れ、横木を上下させることで水が噴き出る龍吐水と呼ばれるもの。江戸~明治時代に用いられた消火道具である。
竹垣の周りにも 見所が…
▲①正門横の竹垣の高さは目線より低いので、路地から眺める光景も味わいがある。
▲②ぐるっと東側へ回り込んでみた。最初、駐車場から生家方向へ一直進したときには気づかなかったが、銅像の背面から眺める光景はとても味わいがある。(※個人の感想です)
▲③さらに回り込んで裏側(北側)へ来てみた。裏側だと、より敷地の広さが感じられる。此処まで人はあまり足を運んで来ない。ゆえに、印刷物やネットでほとんど紹介されない珍しい光景である。
▲④ぐる~っと一周してきた。(※右:大きな樹木の奥が正門) それにしても広い‼
生家前には 生命力溢れる自然の姿が…
▲生家前に根を張るムクの樹は樹齢200年。幹の半分が台風で破損していたが、それでも青々とした葉を茂らせている姿に自然の生命力の偉大さを感じた。
▲見学を終えた後は生家前で小休止。静かな環境の中で、しばし余韻に浸り癒されてきた。
ところで 地元に彌太郎記念館がないのは 何故⁉
▲実は、地元に彌太郎の記念館はない。理由は、彌太郎の母親の遺言だった「人は成功しても質素であるべし」を守ったから。ちなみに現代公開されている資料は、遺族が国や市町村等へ寄贈したものばかりである。
▲彌太郎亡き後に遺族は遺志を引き継ぎ、地元のために小学校建設基金を提供した。それが、この学校(安芸市立土居小学校)の前身である。
岩崎家の家紋について
▲有名な三菱マークのスリーダイヤ。周囲に〇があるわけは、当時三菱のマークは既に認知されていたのだが、三つの菱だけを掲げると仰々しくなるため(母親の遺言を守り抜くため)、〇で囲むことで家紋のように見せることにしたから。
▲ところで三菱のマークは、土佐藩主:山内家の家紋三葉柏と、岩崎家の家紋:重ね三階菱を合わせた(デザイン化された)もの。
▲肉眼では分かりにくいが、カメラのレンズを通すとご覧の通り。土蔵屋根の上にある鬼瓦には岩崎家の家紋(三階菱)が描かれていた。また土蔵の壁は、三階菱の木片で修繕(穴埋め)されていた。ところで大河ドラマ「龍馬伝」放映から十数年。今では、一時の彌太郎ブームも落ち着いたため、ゆっくり見ながら、彌太郎がまだ名をあげる前の時代に思いをはせることが出来る⁉
コメント
岩崎弥太郎は土佐の郡部に生まれ育ち並外れた反骨精神で明治時代に頭角を現した有名財閥の創始者
まあ政商と呼ばれた成功者だものいい事ばかりしてきたとは思われないよね
大望を抱き決断力や実行力が並外れ次々に宿願を果たして行った人物やろうけどそうなるとどうしても毀誉褒貶が激しくなるのは避けられないよね
そのスケールの大きさは市井の徒である老生には目眩がするような存在やけど「子のたまわく」で育ち明治の御代で功過相半ばした人物たちは岩崎弥太郎にせよ幸徳秋水にしても総じて親孝行であったところが唸らされるねえ
かなわんわ
やっぱり教育或いは時代の空気なんかねえ
岩崎弥太郎生家跡の本編は三菱のマークの由来やら土佐漆喰・水切り瓦の効能のほか見学訪問者が見逃しがちな生家裏側に注目して今では珍しくなってきた竹垣景色の紹介など見どころ知りどころいっぱいやったわ
詳しくご覧いただきありがとうございます。
彌太郎の功績については既にいろんなもので紹介されており、皆さんご存じだと思うので、
今回はその人物を創った(幼き頃に彼の生き方に大きな影響を与えた)環境に視点を当ててみました。
今回の記事は独自の取材により、案内板や観光ガイドブック等では触れられないエピソードも盛り込んでいます。
そして度々紹介されるアングルを押さえるのはもちろん、滅多に紹介されないアングルまで網羅してみました。
竹の生垣や水切り瓦などについては、さらに土居廓中の記事でも触れています。
合わせてご覧いただければ、この地域ならではの特徴がよりお分かりいただけることと思います。