この記事の公開日:2024.12.24
▲四国遍路はどこから始めても、また複数回に分けた区切り打ちでも構わないといわれている。
▲高知県内全札所の内11ヵ寺を巡る遍路旅も、今回で一旦区切り打ち。
▲巡るのは、第三十三番札所:雪蹊寺と第三十四番札所:種間寺の二ヵ寺です。
遍路道では珍しい 海の上の…
▲それは、海辺の住宅街の中にある渡船場から始まる…
▲渡船とは、浦戸湾入口の海上600mを5分で結ぶ県営の小さなディーゼル船「龍馬」のことである。
▲航路は県道278号線の一部に位置付けされており、無料で毎日運航されている。(※乗船できるのは、人・自転車・125㏄以下の自動二輪車のみ)
▲前身の渡し舟時代を含め、明治初期から遍路道としても親しまれてきた。
▲そして、2025年の夏には電気推進船「浦戸」へと引き継がれる。不特定の旅客を運送する定期航路では、(電気のみを動力とした)全国初の船となる。
長宗我部家の 菩提寺とは…
▲船を降り、渡船場から1.5kmほど歩いて行くと雪蹊寺に辿り着く。
▲弘法大師(空海)が開山した寺で、四国霊場に二つだけある禅寺の内の一つ。創建当初は高福寺、後年は慶運寺と称していた。その後寺は荒廃するが、住職と長宗我部元親公が親しかったことから後に再興を果たした。(※山門はない)
▲元親亡き後に長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から雪蹊寺と称するようになった。
▲本堂横の奥には、元親の長男である信親を祀った公墓がある。
▲信親は戸次川戦(大分県)にて 島津軍に敗れ22歳の若さで戦死した人物。
▲江戸初期になると、住職が朱子学南学派の祖として活躍した。やがて寺は南学発祥の道場といわれるようになり、野中兼山など数多くの優れた儒学者を生み出した。
▲境内には、旅の安全を守るとされる馬頭観音を祀るお堂があり、お遍路さんからの信仰が厚い。
東隣には 秦神社が…
▲寺の隣には、日本では唯一長宗我部元親を主祭神と仰ぐ泰神社がある。神社の名称は、長宗我部氏の先祖が「秦」姓であったことに由来している。
▲明治初期の神仏分離令により雪蹊寺が廃寺となり、当時あった本堂跡に元親坐像をご神体とした秦神社が建立された。
▲社殿の横には、長宗我部元親の四男であり長宗我部家最後の当主となった盛親の慰霊碑がある。
▲盛親は関ヶ原の戦いで西軍に属したが敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、領国を没収され浪人となっている。(享年41歳)
城を巡る 戦の陰に…
▲秦神社と雪蹊寺の隣にある山には、かつて長浜城があった。
▲室町時代の末期、土佐國を収めていた長宗我部氏と豪族:本山氏との間で、城をめぐって激しい戦い(長浜の戦い)が繰り広げられた。
▲その戦いは元親にとっては初陣であった。そこで、この地にある若宮八幡宮に陣を張り戦勝を祈願したという。
▲元親は見事に勝利を収めた。そして…25年の歳月の後、四国を平定したのだった。
元親公は 東方の山中に眠る
▲元親の墓は、初陣之地から東方に位置する天甫寺山の中腹にある。
▲何故、離れた山中に墓を設けたのかというと…元親の遺言により遺灰が埋葬された。(※この場所には元々天甫寺があったが廃寺となっている)
▲墓石の前には供物が並んでいたが、元親のコアなファンでもない限り訪れる人は多くない。
▲かつて四国を平定した武将…今は竹林の中で静かに眠っている。
▲長宗我部元親に関する詳細はこちらから。
変わった名前にも思える 種間寺
▲一面に広がる生姜畑の中に佇む種間寺。景色と融合したような寺名である。
▲その寺名は、開創の際に弘法大師(空海)が唐から持ち帰った五穀の種(米・麦・あわ・きび・豆またはひえ)を蒔いたことに由来している。
この寺ならではの特徴が 随所に…
▲ここにも山門はなく…
▲駐車場と境内間を段差がない状態で往来できる。(※写真は、境内から駐車場へ向かう参拝者)
▲境内はとても細長く、修行大師像~鐘楼堂~納経所~大師堂~手水舎~本堂というような順番で設けられている。参拝時の順番(作法)にはご注意を。(※本堂まで続く参道の反対側には、他の施設やお堂などがある)
▲鐘楼堂横の石の鳥居から上がった場所には春日神社がある。明治初期の神仏分離令以前は、その場所が種間寺の境内だった。廃寺となった後、跡地に春日神社が創建された。
▲開放的なデザインが特徴の本堂。屋根は格式や荘厳を表現した反り屋根の形状をしている。(※正面入り口の奥で参拝できる)
▲気づき難いが、手水舎と本堂との間には300年以上前につくられた手水鉢がある。ご覧のように水溜め部分の形に特徴が…町内(高知市春野町)最古の手水舎である。(※市の有形文化財に指定)
今日まで そして明日から…
▲高知県内の遍路旅も今回で一旦区切り打ち。しかし、県内の札所はあと5ヵ寺も…
▲県内西部の札所間は距離というハードルが…。今も撮影と取材を進めているところです。(※2025年秋公開予定)
▲巡礼の旅《第二弾》の予告動画をご覧ください。(※画面の▶をクリック)
コメント
四国八十八箇所札所巡りというとお遍路さんがレンゲ畑や菜種畑の中を歩いて行くのどかな春の風情や杖を頼りにうねる山道を黙々と歩き門前の階段を淡々と登り降りする姿が印象的な景色なんやが浦戸湾口には渡船でわたる海の遍路道があって特徴的やねえ
四国霊場八十八箇所は当然お寺さんやから幾つもの宗門があるとは思っていたけんど禅寺は二つだけなんやねえ
その一つの雪蹊寺もご多分に洩れず長い歴史の中で荒廃再興を経て今に続く禅門やったんやねえ
雪蹊寺は隣にある秦神社ともども戦国時代の四国の雄である長宗我部一族にゆかりが深く江戸期には土佐南学の祖なる住職が在籍していたと聞くと維新後の西南戦争にその名をとどろかした谷干城将軍まで続く話になって西郷どんまでつながる物語が仄見えるねえ
まして長宗我部氏が渡来人の秦氏の流れをくむとなると長い長い歴史が
雪蹊寺周辺には各時代のエピソードが残っていて興味は尽きんねえ
いかにも種間寺の名は由来を知らずにきたので不思議に思ってきたけんど弘法大師が唐から持ち帰った五穀の種蒔きが由来やったんか
農業者の末裔の老生にとっては有り難味がさらに増すねえ
山また山が折り重なりあう南国土佐
室戸から始まる高知の札所はたいがい山の上や中腹にあるけど種間寺は往来から境内に段差がないとは珍しい立地やねえ
種間寺には山門もないらしいからふらっと入れるような親しみがありそうやね
手水鉢は現代生活ではもう身近には見られなくなったねえ
子供の頃真冬には手水鉢の表面に厚く氷が張っててそれを取り出し円盤のように投げたことを思い出したよ
十年ぶりだとかいう今年の年末の寒波
種間寺の手水鉢は連日氷っているろうかねえ
県東武から中央部までの札所巡りは得るところが多かったわ
県西部の残りの札所巡りが待ち遠しいねえ
いつもご覧いただきありがとうございます。
「海上の遍路道」とは随分風情がある言い回しですよね。
渡船のディーゼル音が聴けるのもあと半年ほど。
もう一度音色を残すために現地を訪れたいと考えています。
そして、今回ご紹介した二つのお寺は平地にあることが珍しく感じたものです。
雪蹊寺には、まだまだ長宗我部氏とのエピソードが隠されていますので、改めて深堀できればと思います。
さて、残りの札所は5ヵ寺となりました。
その内、土佐市にある2ヵ寺の撮影は完了していますので残る3ヵ寺を巡る旅は来春から再開予定です。
どんなエピソードと出会えるのか楽しみです。
その模様は来秋からご紹介できる予定です。
来る年も引き続きご覧いただけると嬉しいです。
よくわかる内容で興味が増大!ブログに出会えて良かったです。
早速ご覧いただきありがとうございます。
本文でも触れているように「雪蹊寺」は「長宗我部」家と密接な関わりがあります。
編集の都合上、そのエピソードの全てに触れることは出来ていないのですが、
これまでに長宗我部元親に関するエピソードを幾つかご紹介済みです。
併せてその記事もご覧いただくと、より内容が分かりやすいかもしれません。