この記事の公開日:2023.09.10
▲高知は昔から潮吹く魚(※鯨)と密接な関係があり、至る所でその証が見受けられる。(※正確には哺乳類)(※紹介する各施設内の画像は、予め許可を得た上で撮影・公開しています)
▲高知市から室戸方面への幹線道路である国道55号線近辺では、描かれた鯨をよく目にする。
▲また室戸岬には、幕末の志士:中岡慎太郎像の側に鯨のモニュメントがある。この鯨像は風見鯨となっており、風が吹いた際にはゆっくり風上を向く仕掛けが施されている。
▲これらは、高知の郷土玩具「鯨車」と「鯨舟」である。元々は、漁師が漁場からの帰途中に我が子への手土産として手作りしたもの。4輪を動かすことで子どもの興味を惹く工夫がなされている。
▲室戸は高知県における捕鯨発祥の地。その歴史を語り継ぐため古代捕鯨で使用された勢子舟による「鯨舟レース」が行われている。コロナ禍の影響で途切れていたそのレースがこの秋再開される。(※2023.9.16(土)に室戸岬漁港で花火大会と共に開催される予定)
捕鯨のまち:室戸とは…
▲四国の右下でV字型の地形を持つ室戸市。(※中央の港は室津港・下部の港は室戸岬漁港と新港)
▲室戸の沖は、鯨が黒潮に乗り回遊する通り道である。
▲そのため、その昔から室戸は日本有数の捕鯨のまちとして栄えてきた。
▲今回は、鯨と室戸との関係についてご紹介します。
鯨に関することは まず鯨館へ
▲捕鯨について理解するなら、鯨館は絶対外せない。
▲国道55号線沿いに道の駅:キラメッセ室戸がある。(シーズン不問で)お客人に大人気の複合施設で、その施設のひとつが鯨館である。(※外観は捕鯨に不可欠だった勢子舟を模している)
▲古式捕鯨で活躍したのが勢子舟。鯨を銛で突くための舟である。鯨を追い込むため、速くて回転しやすいよう船首が鋭く船体は胴長の形状になっているのが特長だ。
▲これらは近代捕鯨で用いられていた三連銃や捕鯨砲。しかし1988年に日本の商業捕鯨が禁止された後、室戸から捕鯨船の姿は消えた。(※なお日本は、2019年6月に国際捕鯨委員会を脱退し、同年7月から大型鯨類を対象とした捕鯨業を再開している)
鯨一頭獲れば 7つの町が潤っていた
▲その昔「鯨一頭獲れば7つの町が潤う」といわれ、この地に大きな富をもたらした。肉は食用、油は灯火や稲の害虫駆除用、骨は細工用、筋は熨斗用…というように、捨てるところはほとんどなかった。
▲古式捕鯨の様子を再現したのがこれらのジオラマ。十数隻が協力し漁が行われていた。
▲何故なら、捕獲された鯨は当然暴れまわる。一隻や少数の舟では捕らえる方の命が危ないからだ。
▲捕獲した鯨を浜に持ち帰る持双舟と、海辺の小高い場所から鯨を探す「山見」と呼ばれる小屋の様子である。鯨を最初に発見した者には鯨元から「目の皮」という鯨肉が褒美として与えられた。
▲捕鯨は大掛かりな漁となる。捕獲した後に浜辺へ運んで解体し、出荷するまで様々な作業が不可欠なのだ。二つあった鯨組(津呂組と浮津組)には、各々300~400人ほどの人々が携わっていたという。
▲その昔、浜辺へ鯨を持ち帰った実際の様子がこれ。今では貴重な時代の証言者となっている。
▲鯨をさばいていたのがこの鯨碆である。海岸線がゴツゴツした岩場が多い室戸において、砂浜が広がりさらに町の中心にも近い立地だったため選ばれた。(※現在、室戸の海岸線すべてがジオパークに認定されている)
鯨館の見所①
▲捕鯨が盛んだった頃、室戸の二つの鯨組に対し、土佐藩は室戸岬(県東端)と足摺岬(県西端)に限り漁場の独占権を与え、資金面や待遇面で優遇した。経営形態が時代と共に「藩営→県営→民営」と移った後も、鯨組の組織の形態は変わらず重要な地場産業として発展していった。
▲そこで、300年以上にわたる土佐古式捕鯨の文化を発信するために設けられたのが鯨館なのである。
▲空中に浮かんだ馬鹿でかい鯨の姿は迫力満点‼ 原寸大なのだろうが、何処から眺めても迫力がある。
▲さらに、鯨館の目玉の一つがデジタルコンテンツで楽しむ鯨の姿だ。それは、①勢子舟で漕ぎ出し鯨に出会うバーチャル体験と、②合成写真が撮れるAR(拡張現実)である。
▲例えば、鯨館前の太平洋を背景に、ダウンロードしたスマホの専用アプリで撮影してみたのがこれ。(※OIRAのイラストやよさこい節の文字はCG合成)
鯨館の見所②
▲鯨は平仮名で書くと「くじら」となるが、元々は「く=黒」を「じら=白」を表していた。漢字では「黒白※」と書いていたそうだ。(※貝原益見著:日本釈名より)
▲そしてこの施設では、鯨の身体構造についても学ぶことが出来る。(※捕鯨に関する歴史も学べるが、撮影禁止のため記事に画像は登場していない)
▲鯨の骨は、太古の昔から狩猟具として利用されてきた。近代では、鯨細工として象牙などと同じように彫物やパイプなどの工芸品として加工されていた。
▲鯨の尾びれが魚類と異なり、水平であることにお気づきだろうか!? これは、体を上下にくねらせながら推進力を生み出すのに適応したからだといわれている。
▲鯨の骨格標本をさらに間近で見るには「むろと廃校水族館」や「室戸世界ジオパークセンター」がおススメ。
▲写真右の鯨の化石は、400万年前の地層から産出されたものである。鯨の骨は黒くスポンジ状なので、岩の中にあっても見つけやすいという。
命の恵みに感謝して…
▲「いごっそう」といわれる豪快な土佐の男たちも、同時に一方では情にもろい一面も持ち合わせていた。1,000頭の鯨を獲ったことを期に、菩提のために供養をし鯨の成仏を弔ったという。
▲その位牌が祀られているのが、室戸市の中心地:浮津の小高い山(宮地山)に鎮座する中道寺である。鯨の位牌はさすがにデカい、実際には1m(※真ん中の位牌)ほどの高さがあった。
歓鯨‼
▲今も室戸のまちで語りづがれる捕鯨物語。今日もお客人たちを尾っぽを長~くして待っている!?
コメント
クジラで思い出すのは小学校の給食に時々出てきた鯨の竜田揚げ
昭和三十年代の高知市内の辺鄙な小規模小学校でも学校に給食炊事場があってねえ
そこで調理してもらった鯨の竜田揚げは毎度噛み応え充分すぎる代物やったよ
給食時間内に揚げた鯨の肉を噛み砕き呑み込めきれなかった児童が散見されたもんやわ
老生もそのくちで往時の高知市○○小学校では鯨の竜田揚げは「窪川行き」との異名があったよ
口に頬ばり当時の国鉄土讃線高知駅から列車に乗って西に向かい終点の窪川駅に着くまで噛み切れずに口に残ると陰口をたたいたもんやった
鯨肉のせいばかりではないけんど小学校以降生来の偏食が度を増しますます肉・魚類が苦手になってきた老生には細々と捕鯨が続いてきているらしい現在クジラの竜田揚げが手軽に食することができる食材か否かがとんとわからんけんど鯨は歴史的にみて日本人にとって大事な食材やったんやねえ
日本人は生きて行くための貴重な資源として必要最小限の捕鯨をしてきたわけで辺り構わず遊漁趣味で海に出て行ったのじゃないことは自明の理
室戸がそうであったように多分日本各地の捕鯨でも肉・脂・骨・節などあますところなく利用して海の恵みに感謝し丁重にクジラの供養を重ねてきたんやろうねえ
我が国があの地かの地の先住民を殲滅してきたり貴重な特定固有動物を根絶やしにしてきた外つ国に四の五の言われる筋合いはないはずぜよ
ブログ氏は古式捕鯨は十数隻の勢子船で行ったとか鯨一頭獲れば七つの町が潤うとかクジラ獲りから出荷に300~400人もの人が携わっていたとかクジラはかつて黒(く)白(じら)と書いていたとか室戸の鯨の供養の位牌は図体の如くこじゃんとデカイとか捕鯨の物語をたどれる貴重な財産が室戸に残っていることを丹念に拾ってきたねえ
土佐とクジラは切っても切れん仲
だてに〽よさこい節に詠われちゃあせんねえ
私も小学校の給食で、時々「鯨肉の竜田揚げ」が出されていたことを思い出しました。
そういえば、なかなか噛み砕くことができなかったです。
現代ではどうなんでしょう?今でも出されることがあるのでしょうか。
ともかく、今となっては懐かしい思い出です。
昨今世界の国々からやり玉に挙げられる日本の捕鯨ですが、じゃあ肉食の欧米等はどうなの?と思ってしまいます。
ところで私は40年ほど前に、室戸の港から大型船で日本初のホエールウォッチングに出かけたことを思い出しました。
何せフェリーを流用していたため上から見下ろす感があり、迫力に欠けたことを思い出しました。
現代では室戸だけでなく、県西部においても小型船によるホエールウォッチングが盛んに行われています。
間近でみる鯨の姿は迫力があることでしょう。
元気なうちに一度は経験してみたいものです。
ps.世の中に「目くじらをたてる」という(相手を非難するときに使われる)言葉がありますが、これは「鯨」とは全く関係ない言葉です。
「目尻」という言葉が変化し「目尻を上げる=怒る」という意味になったそうです。