この記事の公開日:2024.08.05
▲高知県中央部:南国市の田園地帯の中に、国内初の人名を冠した空港がある。それが高知龍馬空港(2003~)だ。
▲前身は、日本海軍の日章第一海軍航空基地であり、太平洋戦争(※以降、日本における”戦時中”または“戦後”と呼称)後に高知空港として供用された。
▲その空港周辺には、旧海軍が使用していた掩体壕(※以下、掩体と呼称)をはじめ、「トーチカ」や戦争末期の運命に翻弄された「白菊隊」の遺跡など、戦争を知るための貴重な遺跡が点在している。
掩体 それは何!?
▲掩体で現存するものはコンクリート製の7基のみとなっている。
▲戦時中にも関わらず、貴重な鉄を骨組みに使用している点に注目。
掩体は どのように造られたのか!?
▲内部の天井や壁には「むしろ・袋・木の板」跡、そして人の「履物」跡が残っている。
掩体は 何故遺ったのか!?
▲戦時中は滑走路と掩体とを結ぶ誘導路が網の目のように、さらに民家や小学校などが点在していた。
▲掩体は機銃掃射や爆撃にも耐えられるよう、分厚い高強度な造りをしていた。
▲戦後になると飛行場は民間空港として、兵舎は高知大学農学部と高知高専へと変貌を遂げた。また、周辺の用地と誘導路は農家に返還されたが、田園の中に鎮座する掩体は引き取り手がなく、前浜村(現:南国市)に再び返還された。
▲解体時、あまりにも硬すぎる構造のため2基を取り壊した時点で工事は中止。7基がそのままの姿で遺ることになった。
▲点線部が、かつて掩体(2基)があったといわれる場所である。
▲1998年、戦争遺跡に対する署名が市民から提出され、2006年2月に7基全てが「前浜掩体群」として文化財(市史跡)に指定された。
歴史の中で消えた 三島村
▲空港周辺には、かつて「三島村」という地区が存在していた(※地図の紅色のエリア)。中央部には命山と呼ばれた久枝山があり、津波や洪水の危険が発生した際に逃げ登ったと伝えられている。しかし、軍用飛行場としてほとんどの田畑が接収され、山はその姿を消した。
▲それは、学校といえども例外ではなかった。
▲その後住民たちは古里を離れていき、やがて三島村は消滅した。
▲「高知龍馬空港I.C」を降りた空港近くの交差点の一角に、当時を偲ばせる石碑が建立されているが、交差点ゆえその存在に気づく人は少ない。
弾痕跡が痛ましい 1号掩体
▲他の6基が東~南向き(海向き)なのに対し、唯一西向き(山向き)に設置されている1号掩体。
▲そのため(地形や気象の関係上)、敵軍のグラマン戦闘機の機銃掃射を受けることになった。
▲格納口の壁面のいたるところに弾痕が見られる。
樹木に覆われ 夏場全貌が見られない 2号掩体
▲掩体を巡る際は「前浜コミュニティセンター」が駐車場として利用可能で、この施設を中心に徒歩約1時間で巡ることが出来る。
県道から一番目につきやすい 3号掩体
▲駐車場へ行く際のルートは、北方の国道55号線からが一般的だろう。突如視野に飛び込んでくるのが3号掩体である。
▲全面がツタで覆われているのが特徴だ。
一回り大きい 4号掩体
▲唯一、双発の大型機を格納する大型掩体で、国内に現存する掩体壕では最大クラスである。
▲大型ゆえ、他と異なり「型枠工法」で時間をかけて造られた。(※他の掩体は盛土工法)
▲この掩体は、強度を保つため後部にバットレス(※控え壁)が設けられているのが特徴だ。
▲掩体の上面には「カモフラージュ」と「爆弾のエネルギーを減衰させる」ため、土が被せられ植物が植栽されていた。
公園整備され見学可能な 5号掩体
▲他の掩体が田園の中に設置されているのに対し、5号(と6号掩体)は民家の近隣にあるのが特徴だ。
▲2013年、管理者である南国市が平和教育の現地教材(※掩体史跡公園)として整備をした。(※バットレスがない点に注目)
民家に隠れて見えにくい 6号掩体
▲この掩体は、県道東側の民家のさらに東側に位置しているため一般的には見えにくくなっている。
▲民家の隣で動じることもなく、歴史を物語る姿は圧巻だ。
他とは設置時の性格が異なる 7号掩体
▲ご覧のように掩体の後部を打ち砕き、道と水路が通り抜ける珍しい光景となっている。
▲元々この場所は重要な生活道だったが、軍はこの場所へ強制的に掩体を設置してしまった。当然住民たちは「この場所だけは…」と陳情したが、「非国民‼」と一喝されたという。
▲戦後、掩体を含む一部の農地が返還されると、直ちに住民たちは後部をくり抜くと共に迂回していた水路を真っすぐに戻し、生活道として再生させた。(※後部が荒削りなのは素人作業のため)
▲住民たちが修復した7号掩体を貫く生活道は時代の変遷を見つめ続け、今も人々の重要な道として活躍している。(※画面左右の黄色い線)
コメント
終戦年代生まれの老生に先の大戦は一世代二世代前の先人が口にしていた
過ぎし日露の戦いに
の風情で物心ついた昭和三十年代には既に身の回りに戦争を示す文物は殆ど無かったと記憶している
老生の年代の者には父祖・教師・職場の上司などに兵役経験者や銃後を生きぬいた人々があまた居た世代であるが実体験を生々しく語る人々は思いのほか少なかった
今にして思うと戦争の未体験者に何を語ってもという諦観・絶望感が心底にあったような気がしてそれがかえって事案の壮烈さを物語っていたと今になって察っせられる
大東亜戦争よりさらに古き幕藩体制以前の戦の標識のひとつとして今に残る城跡なども凄絶な攻防の歴史を持つ痕跡でもあろうが一般的に現代人は城郭などを観ても特別な感傷をもって眺めたりはまずしない
日章の飛行場周辺に点在している掩体群は先の大戦の戦時体制をそのまま示し遺す施設
掩体はもの言わねども古墳然となるまで歴史を我々に突きつけるが如し
考えさせられる事柄は多岐にわたるが現代に生きる我らには戦いに散華した先人の御霊安かれと祈るに如くはないと云爾
コメントをありがとうございます。
仰るように「城跡なども凄絶な攻防の歴史を持つ痕跡」なんですよね。
「現代人は城郭などを観ても特別な感傷をもって眺めたりはまずしない」という点も納得です。
吉之介さんは視点が鋭いですね。
現代の人々が戦争に関して知るには、専門の施設に行って資料を鑑賞するという方法もありますが、
お金を支払ってまで行かなくても「戦争と平和について」体感することができます。
それが「こんなにも身近にある」と言う事実を、果たしてどれだけの方が意識したことがあるでしょうか。
(かく言う私もですが…)
今回紹介した「掩体」や次回紹介予定の「戦争遺跡」は、いずれも日々の生活圏の中にあり、
周囲の環境と共に時代を経て「平和とは」を語り掛けています。
リアルタイムに戦争を体験したことのない私たちが改めて考え直すきっかけになれば取り上げた甲斐があります。
実に詳しく検べましたね!お疲れ様でした!
いつもご覧いただきありがとうございます。
普段意識する機会は少ないかもしれませんが、よくよく見渡すと…
私たちは色々な形で戦争を伝える「物言わぬ証言者」と共に暮らしているんですね。
「戦争遺跡」の取材を開始した2023年9月中旬から約一年。
高知県下には、まだまだ「物言わぬ証言者」たちが地域住民と共に生き続けているようです。