この記事の公開日:2023.04.29
▲布師田出身の偉人の一人が、一木権兵衛(1617-1679)である。一領具足の身分だった家に生まれた権兵衛だったが、布師田の用水路建設で手腕を発揮し田畑を潤した。その功績が野中兼山の目に留まり、29歳の若さで郷士に取り立てられる。そして、普請奉行に抜擢され県内各地にて堰や用水路をはじめ港湾建設で藩政に貢献した。
▲彼が眠る墓所は、布師田今昔物語①で紹介した参勤交代の街道から山道に沿って5分ほど登った処にある。普段は訪れる人も少ないが、地元の有志の手により整備されている。
権兵衛の 功績とは…
▲増水時には(2級河川)国分川に水を流して、下流域の浸水や土手の崩壊を防ぐ役割がある布師田堰。
▲水門の優れた構造が、後に野中兼山に取り立てられるきっかけとなった。
▲もとは1651年に作られた用水路で、権兵衛井流と呼ばれている。国分川の水を分水したもので、大地を潤し人々に自然の恵みを与えている。
▲春になると田畑には水を張り、やがて夏には恵みの作物が収穫出来るようになる。
他地区での功績と その後
▲権兵衛の偉業のひとつに、野中兼山から命じられた室津港(室戸市)の港湾事業が挙げられる。完成間近、港の入口になかなか砕けない岩があったが海神に祈りを捧げ、3年の月日を費やして何とか完成することが出来た。しかし、完成報告をするため高知城下へ出向こうとしたが身体が思うように動けなくなった。幾度かこの事を繰り返すうち、海神との約束を果たすため、海上に祭壇を設け海神に鎧兜や太刀を献じた後、切腹して命を絶った。(享年63歳:数え年)
郡境は 布師田堰の東方に
▲布師田に話を戻そう。布師田今昔物語①で布師田は高知市の最東北部に位置しているとご紹介した。
▲道路沿いには、郡境(現代で言う市の境界)を示す石碑が建っている。是より西(手前)は土佐郡と刻まれている。1942年まで高知市布師田は、土佐郡布師田村と称していた。
▲反対側には、是より東(手前)は長岡郡(現:南国市)と刻まれている。
▲近くでじっくり見ると文字が読めるが、道行く車からは石碑の存在に気づくことはないだろう。
▲もうひとつの石碑が、布師田堰のすぐ東の堤防下(画面左側見切れ位置)にある。
▲撮影は2月。周辺の草が刈られ、さらに冬時期と相まって石碑の存在がはっきり分かる。しかし通常時は草に覆われているため、その存在に気づく人はほとんどいないだろう。
▲石碑の一部が土に埋もれて分かりにくいが、是より東(手前)は長岡郡と刻まれている。何度も言うようだが、布師田は高知市の最東北部に位置しているのだ。しかし送り番所や御殿が設けられ、参勤交代の街道や遍路道も通う交通の要所で、旧土佐郡の中心地であったといわれている。
コメント
なまじブンが立ったばっかりに腕を見込まれ藩での出世
一命を賭してというけれど大尾の事業は神に願掛け命がけ
地位が人をつくるのか志が人に相応の働きをさすのか土佐藩黎明期に一木権兵衛さんが成し遂げた灌漑・開鑿の事蹟は今に益する大仕事
まさしく権兵衛さんは布師田の偉人
その出処進退・功績を前にして老生が如き凡夫凡人にはこうべを垂れるしかないわ
今も続く地元有志の権兵衛さんの墓所の手入れ
布師田の人は律儀で権兵衛さんの名は千載の後までも残り地域の方々の篤志も続いて行ってもらいたいね
土佐郡と長岡郡の郡境の石碑は今となっては日常生活上の必要物ではなくなってるんやろうけど苔むしたまま残してあるんやね
人目を引く事もなくひっそりと佇んでいる姿はなんか味があるねえ
この先もずっと残って行ってもらいたいね
土佐郡布師田村が高知市に編入されたのは昭和17年のこととか
戦時中に何ゆえの併合・編入だったのかね
80年も経つと経緯を知る体験者は随分少なくなってきてるんやろうねえ
映像を見ても布師田はほんまに田が一面に広がり高層物が見あたらず空も広いけんどやがて田んぼが埋まって行くのかねえ
ご覧いただきありがとうございます。
権兵衛さんの最後には一抹の虚しさを感じ、
郡境の石碑には(人知れずひっそりと佇む姿に)愛着が湧きました。
地元にこんなエピソードが隠されていたなんて、生まれて初めて知りました。
学校の授業では教えてくれない、貴重なエピソードを知ることが出来ました。
今回は、いろいろと感情を動かされたものです。