この記事の公開日:2023.05.21
▲前回は、藩政時代の武家屋敷群の景観を今も遺す土居廓中を訪ね、この地を治めた領主:五藤家の家臣たちが居住した区域であるということを紹介した。
▲領主が居城していた安芸城(跡)は、武家屋敷群のすぐ側にあり、通りから眺めることが出来る。実はこの城も含めたエリア一帯が土居廓中なのである。今回は城(跡)とその周辺を訪ね、そこに隠されたエピソードを紹介しよう。
▲安芸城は、土佐藩主山内家:家老の五藤家が居住していた城で、高さが50m程の小高い山に詰(本丸)が置かれ、南側の平野部に曲輪が配された楕円式の平山城である。堀を造成した際に出た土を土塁にし、敵の侵入を阻止する壁として活用した。(※城内の広さは1.8ha)
▲見事な光景を保っていられるのは、地元のボランティアたちによる定期的なメンテナンス作業によるもの。此処でも裏方の、地道な活動が活かされているのだ。
▲城内にある土佐藩家老:五藤家の屋敷である。明治に入り一旦すべて取り壊されたが、明治中頃に寄棟造りの主屋や離れ等が建てられた。後に、国の登録有形文化財に指定されている。
▲五藤家安芸屋敷側には、土塁・濠(お堀)・追手門の枡形の石組み等が、当時のまま遺されている。なお右手に見える屋根は城ではなく、書道美術館と歴史民俗資料館である。
五藤家にまつわるエピソード
▲山内一豊は、土佐に入国する前から各地の戦に出陣していた。仕えていた信長の越前攻め(戦)に出陣した際、敵陣の三段崎勘右衛門が放った矢が一豊の左目尻から右の奥歯まで刺さった。しかし一豊はひるまず、三段崎を組み伏せ倒したという。
▲間もなく家臣:五藤吉兵衛が駆けつけ矢を抜こうとするが、なかなか抜けなかった。吉兵衛が一豊の顔を踏んで抜こうと草鞋を脱ぎかけた時のことだった。一豊は「そのまま抜け‼」と命じた。何とか矢が抜けた一豊は無事一命を取り留めることが出来たのだった。
▲一豊は1601年に土佐へ入国する際、家臣:五藤為重を呼び寄せ「気に入った土地があれば与える」と約束した。安芸平野を通ったとき、為重は「この地を所領したい」と申し出た。一豊は、命の恩人である(為重の亡き兄)吉兵衛の功労に報いるため、1,100石を与えると共に、土居(安芸城)を預けたのだった。以降五藤家は、家老の一人として土佐藩政を支え続けた。
▲当時の安芸城は「一国一城令」により、城ではなく土居と称していた。なお、安芸城が廃城になった後も代官として屋敷を置いていた。
▲現在、五藤吉兵衛の霊は城内の藤崎神社(写真左)に祀られ、また鏃(矢の根)は五藤家の宝物として城内の歴史民俗資料館に展示されている。
安芸城:詰(本丸跡)へ登ってみた
▲頂上(詰)へは書道美術館横から山道を登って行く。この小高い丘(山)は50mの高さなので、道のりは僅か数分。
▲途中にある三ノ段や二ノ段等、城の造り(配置)を目にしながら上り続けると、あっと言う間に詰へ着いた。
▲詰(本丸)はさすがに広く開放感がある。眺めが良かったら、ちょっとしたピクニック気分が味わえるかも⁉
▲牧野富太郎博士は、この地(安芸市)にも採集のため訪れている。此処へも登ってきたのだろうか⁉ 等と考えながら、木陰の中で足元に広がる植物をしばし眺め続けた。
▲言われなければ、此処が城(本丸)跡だとは思えない位、遺構は見つけられなかった。唯一、石が数個埋まっていたが、きっと何かの役目を果たしていたのだろう。
お目当ては この眺望
▲樹々の間から僅かに見えるその先には、土居廓中と安芸平野が顔を覗かせていた。下からは決して味わえない独特の開放感がある。冬季にはもっと見晴らしが良くなるだろう。それでも、五藤氏の家臣たちが暮らした町割を見ていると、心が当時にタイムスリップしてしまったのでした。
地区で見かけた光景① 土佐ならではの壁仕様
▲町中に再び戻ってみると、様々な建物の壁が土佐漆喰と水切り瓦で造られていることに気づいた。(※土佐漆喰と水切り瓦の詳細については、岩崎彌太郎生家の記事で紹介しています)
▲何度も言うようだけど、やはり「先人たちの知恵は凄い‼」理にかなっている。
地区で見かけた光景② 土居小学校
▲土居廓中の南には、約150人(※2024年4月現在)の児童が通う安芸市立土居小学校がある。
▲昔懐かしい、お馴染みの「二宮金次郎」像の姿に出会った。彼は少年期に両親を亡くし、農業を営む叔父に引き取られるのだが、叔父から「百姓に学問はいらない‼」と叱責され続けた。そこで、薪を背負いながら本を読み続けたのである。勤勉と倹約に努め、やがて青年となった彼は20代半ばで家の再興を成し遂げたのだった。
▲全国の小学校に設けられ、いつも目にしていた金次郎像にはこんなエピソードが隠されていたんですね。年を重ねて(この歳になって)、とてもよい勉強になりました。
コメント
安芸を治めることとなった五藤氏にまつわる山内一豊との戦乱のさなかのエピソードは気絶しそうな話やね
安芸城跡は登るに手軽な高さのようやけど安芸平野を眺望するには十分な場所のようやね
以前土居廓中を訪れた際迂闊にも全然気にもとめてなかったわ
今回ブログ主のおかげで見損なっていた景色を見られて何十年か前のドジを挽回させてもらえたよ
土居小学校の二宮金次郎の像が「陶像」とは珍しいよね
普通は「銅像」やろうに「陶製品」とはよく出会えたねえ
これも過ぎし戦の余話を静かに物語っているんやね
今はどうか知らないけど老生が通った明治から続いてきた小学校にも二宮金次郎像はあったあった!
台座から背伸びして像に触るとヒンヤリしてたから多分金属製やったような
土居小学校の像の経緯からすると我が母校の金次郎さんも戦時中に金属供出して戦後に再建されてたのかねえ
でも昭和30年代に小学校へ通っていた当時には既に金次郎さんの人となりは学校では教えなくなっていたんじゃないかな
老生は小学生のころ婆様から
『しばかり なわない わらじをつくり おやのてをすけ おととをせわし きょうだいなかよく こうこうつくす てほんは にのみやきんじろう』
と節付きで二宮金次郎の唱歌を教わった記憶があるよ
今はもう歌われないし聞く機会も無くなったね
像が残っているだけでもよしとしたもんかねえ
「土居廓中がある地域を治めていた五藤氏…」という話はよく聞いていたのですが、そこには壮絶なエピソードが隠されていたんですね。
それにしても五藤氏が何故「領地はこの地がいい」と言ったのか、その理由に興味が尽きないです。
そして、全国の小学校で目にする二宮金次郎にも深いエピソードがあったんですね。
様々な「いわれ」を、今回の取材を通じて初めて知ることが出来ました。
それにしても訪れる地には、知的好奇心を刺激するエピソードがたくさんあります。
別に知らなくても生きていくのに困らないけど、歴史の深みに触れる取材は「知る」だけで心の財産が増えていくというもの。
まだまだ心の旅は続きそうです。