この記事の公開日:2023.04.29
▲TVドラマの影響で、今やすっかりその名を全国区にした名教館。もともとは江戸中期に、地元の領主深尾氏が家臣(武士)の子どもの教育をするために設立したもの。算学・医学・洋学・茶道・書道・兵学・剣術・馬術の他、多岐、つまり文武両道にわたり学ぶことが出来た。(※許可を得て撮影・公開しています)
▲時が経ち、明治の時代になると一般人も通えるようになるが、身分制度の差別は根強く残っていた。
▲建築様式は重厚で格式高く、玄関で見上げると格天井の作りになっている。なお、現存するのは玄関部分のみ、残りの部分は保存改修されたもの。ちなみに名教館内部は入場無料となっており、座敷へ上って自由に見学することも出来る。
多くの偉人たちを輩出した 名教館
▲この学び舎からは、明治維新で活躍する志士や、中央で活躍する政治家・学者・音楽家等を多く輩出していった。
▲彼らをに教えを説いていたのが伊藤蘭林という儒学者(もともとは名教館の学生だった)。「佐川の偉人で蘭林の指導を受けていない者はいない」といわれている。
▲中央に鎮座する田中光顕もこの名教館で学んだ一人である。彼は、明治維新の時期に土佐勤王党に入党、初代内閣書記官長・警視総監・学習院長等の要職を歴任した人物。(※前回②で紹介した、富太郎の墓碑と並んでいた墓碑の人物である)
▲やがて11歳になった富太郎。名教館に入り蘭林の下で様々なことを学んでいたが、学制の発令により名教館は佐川小学校となった。しかし、これまで様々な知識を身につけてきた富太郎にとって、授業内容はあまりにも退屈なものだった。そして僅か2年で自主退学をしてしまう。その後は、独学で植物学の研究に没頭していった。
▲明治維新後、名教館が廃校となった後に蘭林が開いた家塾(寺子屋)である。81歳の生涯を終えるまで教育に当たっていた。
▲富太郎に大きな影響を与えた人物がもう一人いる。富太郎が18歳の時中学校教師として赴任してきた英語に堪能な永沼小一郎である。富太郎は、彼からサイエンスとしての植物学を学んだ。後年、富太郎はこう語っている。
▲この後、富太郎は22歳になると植物学をさらに研究したいと上京する。当初は高知と東京間を往来しながらも、やがて東京で所帯を構え、その生涯を終えるまで定住することになるのであった。
上町辺り 他の施設も探訪
▲この建物は1886年に建てられた擬洋風の公共建築物で、もともとは佐川警察署として1930年まで活躍していた。
▲現在2種類の看板が掲げられたままになっているが、これは警察署としての役目を終えた後、青山文庫・佐川文庫・民具館等と用途を変えながら活用されたことを、お客人たちに知らしめるため。
▲名教館で学んだ地元の偉人:廣井勇(日本近代土木の先駆者)の像が横に建立されている。それにしても、周囲に江戸時代からの建物が多く遺る町並みに、これらが不思議と溶け込んでいるのは何故⁉
▲このような佐川町の主な建物を中心にした、建物のジオラマ類が地場産センターで展示されている。①~③で紹介してきた建物のジオラマは、地元の男性が趣味で手作りしたもの。ちなみに、施設は入場無料である。(※許可を得て撮影・公開しています)
▲すぐ隣には、観光案内所でもあるうえまち(上町)駅が建っている。(※但し、駅と謳ってはいるが交通機関の駅ではないのでご注意を)
うえまち駅って何!?
▲実はこの建物、佐川町の観光案内所である。そして、ひっそり置かれていたのがこの施設を模したジオラマ。内部が覗けるよう屋根部分がオープンになっている。(※許可を得て撮影・公開しています)
▲目に飛び込んでくるのが、駅という名に相応しい一台の客車。1924~1930年まで土讃線で活躍していた日本で唯一現存する四輪木造2等客車である。ちなみに、現在のグリーン車に相当するもの。
▲何故この地にあるのかというと、(元)宮内大臣:田中光顕の功績を称え、当時の鉄道省から町に寄贈されたため。その後老朽化のため一度国鉄へ譲渡されたが、JR四国の熱意により復元され、再び町に寄贈された。
町の活性化のため 旧家をリノベーション
▲町では活性化のため、旧家をリノベーションして店舗用に貸し出している。これは、旧:竹村呉服店だった処で営業している雑貨と喫茶店を営むキリン館である。(※許可を得て撮影・公開しています)
▲蔵の中には、どれもこれも味わいがある小物たちが…
▲そして座敷では、ノスタルジーを感じながら、ちょっとブレイクを…
▲雰囲気を壊さないよう、隠し階段になっっている壁際の襖…
▲坪庭や、屋根が店舗と一体化している土蔵ギャラリー等は見逃しやすいが、必見‼
▲障子には土佐和紙・壁は土佐漆喰・部屋を間仕切るのは欅の欄間、これらの仕様は一部であり、全体的に贅沢な造りとなっている。それもそのはず「国の登録有形文化財」となっているのだ。
▲町では、植物に関わる様々な活動を通じて町を「まちまるごと植物園」に見立てアピールしている。人々が植物を通して繋がりあう「植物のまち」を目指し、取り組みがなされているのだ。ドラマ化決定以前から地道に活動に取り組んできた町の有志たち。その活動は、一過性のブームに翻弄されることなく、これからもずっと続いていくことだろう。
▲梅雨時の牧野植物園はこちら。
コメント
佐川町は江戸期から教育が熱心で幕末・御維新後に活躍した偉人を多く輩出した町なんやね
高知市からかなり離れた地方の町なのに戦前高等女学校があったのも頷けるわ
うえまち駅の日本で唯一現存する土讃線で活躍していた四輪木造客車は目を引くねえ
鉄道省から町に寄付があり老朽化で国鉄に譲渡されJRで復元し再び佐川町に寄贈されたという経歴は鉄道事業者の変遷歴史も知られて鉄道マニアにはたまらん代物やろうねえ
そういえば国鉄がJRになる前に国鉄の鉄道・バスを「省線・省営バス」などと言う昭和一桁生まれの御夫人が職場にいたな
判断に間違いがなく目端が利き何事にもこなれた仕事をする勤め人だったわ
人間慣れた仕事だとつい緊張感が薄れミスする事がよくあるけど彼女にはそういうところが微塵も無かったね
利口者とはこういう人のことをいうんやと思いずっと手本にさしてもらったけどそれで老生がものになったかどうかは言いたくござりませぬ!
老生の母親とほぼ同年代の方で急いでメモ・走り書きなどする際には旧カナ使い混じりの文章になることも母親と同じ
今の時代に旧カナ使いがすっと出てくる人なんて絶滅危惧種に近い存在やろうけんどこの先輩も佐川高女に学んだと聞いた覚えがあったわ
今も卆寿を越えて健在なのがなんとも嬉しく老生の実体験が教育熱心だった佐川町の話に繋がったよ
熱心に往時の事物を保存・再建したり個人でジオラマを作って町の観光に寄与したり
堅実な活動が令和の御代に一段と注目されだして良かったねえ
佐川町コンパクトな街中が興味深いところやね
いい紹介内容だったわ
うえまち駅に展示されている木造列客車はとてもインパクトがありますね。
初めて此処を訪れたとき「うえまち駅⁉」という名称と共に「何で客車(列車)があるのだろう⁉」と不思議に思ったものでした。
また、佐川地場産センターに展示されているジオラマ類は、佐川の町にある主な建物だけでなく、
高知城(高知市)や岡御殿(田野町)等も一堂に展示されており、見応え十分過ぎるほどです。
一人の素人男性が趣味で始めたジオラマ作りは、牧野博士が追及した世界にも通じるのではないでしょうか⁉
そして、うえ町地区には富太郎博士の生家跡(現:ふるさと館)や牧野公園をはじめ、
記事で紹介した以外にも多くの見所が、歩いて周遊出来る距離の中(コンパクト)に集まっています。
さらにさらに驚いたのが、駐車場をはじめほとんどが無料で見学(鑑賞)出来るということです。
取材前には多額の出費を覚悟していたのですが、心配無用でした。
とても贅沢な体験が出来ました。