この記事の公開日:2023.04.29
▲野中兼山は兵庫県姫路市出身。13歳の時、父親の従兄弟である野中直継(土佐藩奉行)の娘の入り婿となった。直継亡き後、彼は土佐藩の家老として27年間仕え、土木事業による新田の開発や築港をはじめ森林資源の活用、そして楮栽培・鰹節の奨励・養蜂・捕鯨等、土佐藩発展の礎を築いていった。
▲彼の行った事業は現代でも、南国土佐に多くの恩恵を与えている。今回は、兼山が行った土木事業にスポットを当て、前後編にわたりその人生に迫ってみる。
▲兼山の銅像は県北部の本山町(帰全山公園)に建てられている。この地に母親の墓があることから、此処へ銅像が建立されることになった。なお像は手元に地図を持ち、土木工事の陣頭指揮を執る姿を表している。
新田開発には欠かせない 堰
▲兼山が最も力を注いだのが、白髪山(香美市にある剣山系の山)を水源とし香長平野から土佐湾に注ぐ物部川(一級河川)に設けた山田堰である。
▲建設には、木で四角の枠に組み石を詰めて組み上げる「四ツ枠工法」が用いられた。
▲堰は、長さ327m・幅111m・高さが1.5mで、松材45,000本・大石3,500㎡を用いて造られた。
▲1973年上流に新たな合同堰が出来るまで300年以上現役で活躍した旧:山田堰。このことからも、その技術力の高さが伺える。今は、堰跡がその歴史を物語っている。(※高知県指定文化財・史跡に指定)
▲湾曲斜め堰として有名だった旧:山田堰がこれらの写真。着工から26年後(1665年)に完成したが、兼山は完成をみることなくこの世を去った。(※詳細は後編で)
▲兼山は、この場所に取水用の堰を築けば、物部川の水を使い水路を網の目のように張り巡らせられると計算していたのだ。
▲なお、堰跡のすぐ近くの公園には記念碑が建立されている。
※旧:山田堰の関連工事には、身分の低い一領具足の家に生まれた一木権兵衛(現在の高知市布師田出身)が深く関わっている。権兵衛は、地元の国分川に権兵衛井流を造った際その手法が兼山に認められ、普請奉行に大抜擢された。その後、数々の土木・港湾事業等で手腕を振るった。
やがて 世代交代のときが…
▲どんなものも、やがてその役目を終える時がやって来る。1973年上流800mの場所に新しい合同堰が完成した。
▲物部川の下流にあった幾つもの堰が台風のたび災害を被っていた為、一番上流にあった堰の位置に1966年「新:山田堰(合同堰)」が整備された。
下流では水路を分けて 効率よく水量を確保
▲これといった大規模な水源がない平野に農業用水を引き込むためには、遥か上流で川の流れを堰き止める必要があるが、下流の地域は水量が制約されてしまう。そこで下流では、一ヵ所で3つの水路に分け水量を確保することにした。これが三又である。
▲当時は機械というものがなく、人力が頼り。そこで、溝を掘削した人たちの名前を付けて(武市溝・近藤溝・野村溝)その功労を称えた。
▲三又により大地への水路網が整備され、香長平野における農業は飛躍的に発展していった。その経済効果は一説によると、毎年10万石以上と評価されていたそうだ。(※土佐24万石と謳われているのは、幕府に対する節税のためともいわれている)
▲水路と田畑が織りなす景観には、先人たちの知恵と工夫が活かされているのである。
▲ちなみに地元:香南市の小学校では、3・4年生が社会科の授業において、この水(堰や水路)の恩恵を学んでいるそうだ。地元を深く知るとは、何とも頼もしいことではないだろうか。
コメント
野中兼山公は土佐藩外の播州姫路の人なんやね
山内家が土佐に来て間もなくの頃に今に至るまで有用な堰などを造り灌漑を豊かにして石高を上げたり筑港や農林水産業の奨励に務めるなど活動は多岐にわたり藩の繁栄の礎を築いた技量には舌をまくね
今見られる香長平野の田地田畑の景色は兼山公によるところが大なわけかねえ
その分夫役を課せられた領民・民草は苦労したんやろうねえ
兼山公のような多才な傑物はいなければならん人材やけど
いたらいたで傍はズツナイ!
粉骨砕身土佐藩のために働いた功労・功績は十分賞賛に値はするが
俗に「一将功なりて万骨枯る」というけれど
なまじ腕の立つ上役・先やりが居るとねえ
はたの者は難儀なもんよ
いつの時代も変わらんことわりじゃないろうか
さのみブンの立たない勤め人だった老生は身につまされ往時の人々の苦労には同情したくなるわ
本当に兼山がいなければ、高知県の発展はどうなっていたことか。その功績は称賛に価すると思います。
その効果は絶大で、一節によると土佐24万石は、実質49万石であったともいわれています。
では何故24万石と言われているのかというと、それは幕府へ収める税金対策(節税)によるものだったようです。
この気質が、明治維新で多くの人材を輩出した土佐ならではなのかもしれませんね。