この記事の公開日:2023.04.29
▲葛木男神社は土佐國二十一座のひとつだが、創建時期は不明である。
▲祭神は葛城襲津彦神で、布師田の総鎮守である。葛城襲津彦命の後裔である布師一族がこの地で森林原野や田畑を開墾したことが、葛木男神社やの地名の起源になったといわれている。(※葛城襲津彦は仁徳天皇の皇后磐之媛命の父である)
境内には 布師田で最大の樹がある
▲境内にそびえ立つこの老木(杉)は、高知市の保存樹木に指定されており、市が2010年に実施した調査では、高さ35m・幹の周囲4.83m・樹齢約600年となっている。
▲御旅所とは、神社の祭礼において神(一般的には神輿)が巡行の途中で休憩する場所のことである。葛木男神社から数百メートル国分川沿いに下った位置に設けられている。
葛木咩神社跡
▲葛木咩神社は、かつて田園の中に設けられていた。祭神は葛城襲津彦妃神である。この神社も土佐國二十一座のひとつだが、創建時期は不明である。
▲国分川の水害により老朽化が進んだため、1972年に葛木男神社へ合祀された。向かって左側の狛犬が砕け落ちているのがお分かりだろうか。ちなみに、狛犬の後方には鳥居があった。
▲この入口は(旧)土佐郡の東端で、(旧)長岡郡(現:南国市)との境にあたる。後方が土佐郡(高知市布師田)である。なお、郡境については布師田今昔物語②でも触れている。
▲かつてこの神社は杉が立ち並び、周囲を覆っていた。OIRAが幼少の頃は、クーラーが一般家庭にはない時代。夏ともなるとここまで来て、蝉の声を聴きながら境内で涼んでいたものだ。
▲写真では分かりにくいが、拝殿や神殿の礎石が遺っている。ところで、かつては国分川を隔てて北側に葛木男神社、南に葛木咩神社があったことから、葛木咩神を天の河の命、葛木咩神を浄川媛の命に比定し、七夕伝説を連想する神話が残されている。何ともロマン溢れる話だと感じずにはいられないのはOIRAだけだろうか。
コメント
やっと見つけた布師田の桜
葛木男神社にあったかぁ
苔むした狛犬は獅子に見えて時代がついちゅう感じやね
布師田の地名のいわれは開墾した「布師」一族に由来するとか
我々現代人は「布」といえば工業製品のイメージやけど布師とは布を機織りしていた人々ということなのかね?
その布とは絹糸?麻や木綿製などだったのかな?
自家製で機織りをしたことがあるなんていうと70歳代の老生の母親の代ではおそらくやってないね
明治中期生まれの婆様には機織りをした話を聞いた記憶があるよ
農家だった爺さん婆さんとこには機織りの残骸が残ってたし糸車もあったな
婆さんには「カイコ」の飼育方法を習ったし繭を作る体験もさしてもらったけど婆さんの機織りは絹糸だったのか野良着用などの綿製品などだったのかは聞かずじまいで今となっては確かめようもないのは悔やまれるね
農民の末裔を標榜してても近い先祖の農村生活活動の在りようを我が子孫に伝えようにも情報の断絶が致命的
もっと身を入れてよく聞いておけばよかったわ
布師の布師田ねぇ
葛木(男)神社の杉の老木は風雨に耐えて600年なんや
何世代の布師田の住民を見守ってきたか存在感に息をのむねえ
御旅所の石は随分交通の便のよさそうな処に独座してるねえ
これで周りに松の木などで日陰がある中に鎮座してもらってるといちだんと旅の途中の休憩所の風情が出そうなけど時代劇の見すぎか
今も神輿の渡御はあるんやろか
畏れ多くも御旅所(石)が邪魔者扱いされてないとええんやけどねえ
ぽつねんと旧土佐郡と旧長岡郡の郡境の見晴るかす田園が中にある葛木(め)神社は鳥居がすでに無く狛犬は砕け落ち寂寥として時の流れを思わずにはいられんねえ
近くに岡豊高校ができ「まほろば街道」も通って昔に比べていささか賑やかになってきたのが慰めとなるかねえ
今回もご覧いただきありがとうございます。
布師田の由来となった「布師」とは「縫製をする人」という意味です。
国分川の恵みを受け、田畑を開拓しながら発展してきたた「布師田」。
現代のように、地名にキラキラネーム⁉ばりの名前を付けたのではなく、
そこにはちゃんと由緒ある理由があったんですね。
そう考えると、高知にあり他県にもある「伊勢崎町」「一ツ橋」「横浜」「中の島」「本町」等の由来には
どんな意味があるのだろう?と考えてしまいます。
地名って面白いですね。