長宗我部元親の物語③ 歴史民俗資料館と古民家

南国市
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この記事の公開日:2023.04.29

長曾我部元親ちょうそかべもとちかは1539年、(現)南国市なんこくし:岡豊城にて生誕した。1575年(36歳)には土佐を統一、続いて1585年(46歳)に四国を制覇したといわれている(※諸説あり)。そして1599年(享年61歳)体調を崩しこの世を去った

岡豊城があった場所は、現在歴史公園として整備されているだけでなく県立歴史民俗資料館が建てられている。文字通り、土佐の歴史や風俗等が分かる施設となっている。今回は、土佐の人々の歴史・文化・暮らし等について紹介します。(※施設内の写真は、許可を得た上で撮影・公開しています)

長曾我部氏の 本陣

▲これは阿波中富川あわなかとみがわ合戦(1582年)時の、長宗我部軍本陣推定復元したもの。ドラマ等における本陣のシーンでは人物カメラが偏りがちなため、こうして本陣の姿を眺められるのはとても貴重な体験となった。なおこの周囲には、長宗我部氏や国史跡・岡豊城跡に関する資料(※大人の事情により撮影禁止)等が展示されており、当時の様子が良く分かるよう工夫されている。

長曾我部氏家臣の 屋敷跡

高知龍馬空港滑走路拡張整備工事の際、16世紀の屋敷群発見された。

▲このジオラマは、その屋敷群復元したものである。長曾我部氏の家臣団屋敷跡で、周囲で囲まれていたことから環溝屋敷跡かんこうやしきあとと呼ばれている。弥生時代から中世を中心とする高知県最大田村遺跡である。原始から中世にかけて南国市土佐の中心だったことを物語っている。後年、山内氏の土佐への入封にゅうほうにより埋め立てられ田地となってしまった。

土佐の昔の 暮しぶりが見えてくる

下田港(現:四万十市)から、材木を京阪神へ運搬した機帆船きはんせん。写真では分かりにくいが、衝突防止のため左舷灯(トリカジ)と右舷灯(オモカジ)で異なっていた。

▲土佐と言えば(※県魚にもなっている)。その鰹漁をするための船が鰹船である。昔も今も一本釣りである点は変わらない。なお、新鮮な鰹を持ち帰るため和船時代の漁師たちは力の限り櫓を漕いだ


一定の年代以上の人たちには懐かしい生活用具(※歴史民俗資料館展示物:左から順にご紹介)

  • かまど(煮炊きするための設備)「」とはところと言う意味
  • 羽釜(電気炊飯器登場以前の炊飯用)「はじめチョロチョロ、中パッパ…」のフレーズで有名
  • 膳箱(日頃は食器を入れておき、食事の際には箱の上蓋をひっくり返し膳として活用した)
  • 飯びつ(羽釜で炊いたご飯を移し替えて保温するためのもの)
  • 電気炊飯器(日本初:寝ている間にご飯が炊け、主婦の家事労働を大幅に減らした)
  • 保温ジャー(飯びつに代わって登場した)
  • 洗濯板とタライ(洗濯機が登場する以前に活躍した洗濯用具)
  • 火鉢(木炭を用いた暖房器具で、湯を沸かしたり、餅を焼いたり、手をかざして温めたりした)
  • 練炭火鉢(面倒な木炭の欠点を補うため、練炭を燃料にした火鉢)
  • 掛け時計(壁掛け式で、クウォーツ化以前の振り子時計)
  • 買い物かご(エコバックの前身で、スーパーがない時代に商店で買い物をする際持参していた)
  • 裁縫箱(裁縫が手縫いによる時代、裁縫用具を入れていた)
  • 黒電話(プッシュホンの電話が登場するまで活躍した。ダイヤルを廻す…とはこの形式のこと)

土佐土産の数々。上の写真は昔から有名な土佐土産である。(※歴史民俗資料館展示物の一部)


古民家に 思いをはせる

山道脇には、四万十川上流である旧:東津野村北川(現:津野町つのちょう)から移築された山村民家主屋たたずんでいる。

主屋とは、家族が食事をし疲れを癒す生活の場や、冠婚葬祭時には人々が集う場として活用された建物のこと。現在、登録有形文化財に指定されている。古民家は、を一切使わない組み手の技術で建てられているので、家屋の解体古材再利用しやすいという特長がある。

土間では、紙の原料のこうぞ三椏みつまたを蒸していた。土間の天井部すすで黒ずんでおり、最上部にはを逃がすための空間(隙間)が設けられているのが分かる。

▲主屋の間取りはこんな感じ。

桜の時期には、花のピンクと草や低木の緑のグラデーションに、藁ぶき屋根が薄茶の古民家が妙にマッチしてノスタルジーを感じてしまう。

コメント

  1. 吉之助 より:

    岡豊山の県立歴史民族資料館の土佐の昔の暮らしぶりの生活用具展示は懐かしい物がいっぱいやね
    老生の物心ついた時分に身近にあった道具類が多く
    展示場に足を踏み入れたらかぶりついて見入りそうやわ
    物が使われなくなったらまつわる言葉もいつしか使われなくなるのが道理やけど言葉は展示すること少ないから廃る一方かね

    羽釜で炊いたご飯は美味かったなあ
    老生の婆さんは炊くたびタイマーがないのに火加減を自在にあやつり好みの色・硬さの「おこげ」を作ってくれて塩おむすびが「おやつ」だったよ

    老生の子供時分は「かまど」のことは「おくど」と呼んだね
    「かまど」は「へっつい」ともいうらしいけど老若男女呼び名は「おくど」一辺倒やったわ
    煮炊きした後の「おくど」の焚き口には薪が燃えた「オキ」や灰が残り「せんば」と呼んだシャベルの孫のような道具でそれらをすくい取りオキは消し壺に入れたり灰は畑に撒いたりしたもんやわ

    煮炊き炊事をするところは「カマヤ(漢字だと釜屋かな?)」と呼んだよ
    もう死語やろうねえ
    四十年ほど前に遠縁の老婦人が世間話の中で「カマヤの屋根をなおさないかん」と言ってたのが高知で「カマヤ」という言葉を聞いた最後やった

    資料館でお役目御免になった古道具を相手に当時の語彙で一人呟いてみたいね
    思い出ふつふつ立ち去り難くなりそう

    • OIRA OIRA より:

      細部までご覧いただきありがとうございます。

      その昔、と言っても55年くらい前には当たり前に使われていた生活用具たち。
      久し振りに見て懐かしさと、当時の便利さと不便さが思い出されました。

      当時を知らない年代の人たちにとっては「ふ~ん…」の一言で済まされるのかもしれません。
      でも歳を重ねてくると、当時の生活を経て今に繋がっているという事実を噛みしめずにはいられません。

      今日現代(現在)当たり前の光景も、やがて懐古のものとなるのでしょうね。
      「何が未来永劫で、何が遺物となるのか」判断は難しいですが、今の姿を切り撮る(遺す)ことの意義を改めて感じました。