この記事の公開日:2023.04.29
▲旧:山田堰跡のすぐ近くに造られた山田堰記念公園。県指定史跡である。
▲公園内の一角にある遺構。物部川の中井四水門の中で最大の、第二水門の放水口である。(※コンクリートのひさしは、天井石の刻字面を保護するためのもので、復元後に取り付けられたもの)
▲1639年から330年以上役割を果たしてきたが、堤防改修に伴い一旦解体された後、1984年に現在地に移築復元された。
香長平野をまたぐ 人工水路
▲香長平野を10kmあまりにわたり、遥か浦戸湾(高知市)まで横断している舟入川。水源は河川にしては珍しく、平野を流れる物部川なのだ。これも兼山の功績のひとつである。
▲ということは、舟入川は元々人工水路だったのだ。
▲その昔、旧:山田堰(物部川)と同時に造られた舟入川は、山地から切り出した大量の木材や米等を、筏で下りながら高知城下のはりまや橋辺りまで運んでいた。
▲兼山は、舟入川の舟運を利用して南国市に諸役御免(年貢を免除)の地域を設けた。そして商人や職人を集めて、魚・塩・茶・薪等を売買させた。この地は、後に商業地「後免町」として栄えることになった。
▲現在の舟入川は堤がコンクリートで改修されており、国分川(写真:カーブの部分)と合流して浦戸湾へと流れている。
同時進行で進められた 港湾工事
▲兼山は、旧:山田堰と同時進行で港湾の構築と改修を行っていた。日本最初の掘り込み港湾となった手結港(内港)である。
▲漂砂による港湾埋設を防ぐため、内港まで細長い航路で結び南側に長い突堤を設けたのが、現在の手結港(内港)である。台風や大雨等で海が荒れた際港を守る、土佐藩屈指の良港であった。
▲現在の内港は、当時の原型に復元されたものではあるが、防砂堤の配置の優れた技術は今でも高く評価されている。
室戸の港は 稀に見る難工事だった
▲硬い岩礁に阻まれた地形を活かしながらも、難工事の末に岩礁を取り囲むように築いた室津港。航海の難所である室戸岬を航行する船や人々の命を救った避難港でもある。
▲室津港の工事には、身分の低い一領具足の家に生まれた一木権兵衛(現在の高知市布師田出身)が深く関わっている。兼山に認められ普請奉行に大抜擢された漢である。しかし、工事完成の裏には悲しい末路があった。
失脚の憂き目にあう 晩年の兼山
▲兼山は多くの改革で土佐藩を潤したが、その手法を巡っては藩幹部の反発や嫉妬を買うばかりか、領民達からも(強制労働に対し)不満を招くようになっていった。そして、ついには失脚の憂き目にあうことになる。(※一説には、この失脚には兼山の功績を恐れた江戸幕府が関与していたともいわれている)
▲兼山が活躍していた頃、屋敷は高知城内にあった。しかし失脚と同時に没収され、その跡地に藤並神社が建立された。
今は 愛した地に眠る兼山
▲失脚した兼山は、思い入れが強かった旧:山田堰の近くに移り住んだ。その後は一度も登城せず、門を閉ざし、来客も拒み、読書に没頭していったのだった。
▲三ヵ月後、兼山は病に倒れこの世を去った。彼の死後、野中家は取り潰しとなり妻子は宿毛に流され、男系が絶えるまで40年間幽閉されたのだった。
▲藩のために情熱の全てを捧げた兼山。この続きは、私たちが綴っていくことになる。
コメント
人工水路の舟入川はずっと平地を流れる川やから山田堰から河口までの高低差はしれちょらねえ
そこに水を流すんやから相当精度の高い測量技術があったわけや
兼山公の学問はたいしたものやったろうねえ
灌漑工事に港湾工事や諸役御免の地域を設けて商業繁栄を図る
兼山公は土木系の設計施工技能者で経済にも明るく藩にこじゃんと貢献した重役よねえ
けんど「出る杭は打たれる」
これだけ有能・できる人物やと藩内挙げての反発・やっかみ・嫉妬と負の風当たりが強くなるのが世の常よね
なにせこの世は「できないやつらあ」の天下やからね
兼山公の功績を幕府も恐れたとなれば命取り
苛斂誅求というけれど失脚の憂き目をみた後の野中家への藩の仕打ちは陰惨で目を背けたくなるね
これじゃあ祟るぜよたたるちや!
兼山公を祀った神社がどこかにありゃあせざったかなあ?
財政安定は必定の時代やったろうしそれを計らないかん立場でもあったろう
兼山公の下で働かされて苦しんだ領民・民草も大勢やったろうけんど藩が領民を泣かせたという理由だけであの始末のつけ方はどうなの
それほど領民の機嫌を気にしてくれるような藩やったのかね土佐藩は?
かれこれ考えると兼山公失脚の主因は政争に巻き込まれた?
そうなりゃ言いがかりやら何やかやお定まりでよくありそうな話やが堪らんねえ
あれだけの藩への功労者
不遇な晩年を迎えざるを得なかった兼山公や家族の運命には一掬の涙を禁じ得ないね
何時の世も「出る杭は打たれる」は変わりませんね。
既得特権を持つ人たちから見ると「恐れる人」が多かったかつての土佐。
その善し悪しは別として「出る前に潰しておこう」とされるのが現実。
残念ながら、現実は「得は我が身に」「損は他者の責任に」の姿は今でも良く聞く話。
歴史は、私たちにいったい何を語り掛けてくれようとしているのか。
う~ん、答えが出ません。