
この記事の公開日:2025.05.23
















まず、医院があった場所とは…

▲舟入川を渡り商店街から少し離れた所に設けられた柳瀬医院。前には石材店があり、その隣の製材所では舟入川を流してきた木材を製材していた。(※ドラマでは、丸太が映るシーンがよく登場している)

▲「田舎町でも、二つの駅があるなら将来発展するに違いない」と叔父の寛がこの場所に開院した。

▲裏手には後免駅まで菜の花畑が広がり、畦道には曼殊沙華の行列が出来ていたという。(※ドラマではこれらの世界観が母子の別離のシーンで登場した)

▲これが柳瀬医院屋敷跡で、現在やなせたかし・ごめん駅前公園として(公財)アンパンマンミュージアム振興財団によって整備・管理されている。

▲公園の周りには舟入川から引き込んだ水路がある。元々この辺りが田畑だった頃の名残りで、後免町内でよく見受けられる光景だ。(※詳細は後述)
医院の裏手に 兄弟の遊び場が

▲裏手には柳瀬兄弟がチャンバラごっこをした小高い遊び場:道信山があった。

▲昔々長宗我部元親がこの地を治めていた戦国時代、この地には複数の古戦場があった。その戦による軍馬や戦士たちの亡骸を祀った小山の一つが道信山である。

▲かつては鳥居や祠があり、山の上に参ることが出来たが…


▲ドラマを機に訪れる人々の増加を見越し、安全性を考慮して大改修が行われた。


▲亡骸を祀っている場所であり鎖が設けられ通常は上れない。(※ドラマでのシーソー設置場所のモデルとなったか否かは定かでない)
ミスから生まれた ライオン像

▲やなせたかし・ごめん駅前公園の一角に、かつてライオン像が置かれていた…

▲ある日のこと、医院前にあった石材店へ「獅子を彫ってくれ」という注文が入った。彫り上がったライオン像を注文主に見せたところ…「頼んだのは神社の唐獅子だ!」と大喧嘩になった。

▲結局、行き場を失ったライオン像は柳瀬家の庭に置かれることになった。柳瀬兄弟はライオン像が苔で緑になると獅子っぽく見えるのではないかと、毎日米のとぎ汁をかけて擦っていたという。

▲時が経った2002年のある日、母校である後免野田小学校の児童からたかしのもとに一通の手紙が届いた。「なぜ柳瀬医院があった場所に、石像のライオンがあるのですか?」というものだった。

▲社会研究授業の調査時に気づいた子どもなりの素朴な疑問だったが、それに対する返事が縁となり母校と70年振りの交流が始まったのだった。

▲翌年8月ライオン像は母校の中庭に移設され、やなせライオンと命名された。(※一般見学は不可)

▲ミスがなければその後のエピソードへも発展しなかったわけなので、これは「計画された偶然」と言えるのかもしれない⁉

▲この逸話のライオン像のレプリカ(海洋堂製作)が、この春やなせライオン公園に設置された。(※ライオン像はドラマの第4話で、幼い嵩が描いた弟と一緒のイラストで一瞬登場した)
やなせたかしの世界観が溢れる 公園が誕生


▲この春開通したばかりの南国市シンボルロード脇に、新しく造られたやなせライオン公園。

▲南国市シンボールロードとやなせたかしロードが交差する場所に位置し…

▲たかしの世界観から着想を得たもので溢れる、遊び心たっぷりの公園となっている。

▲噴水は、やなせライオン(レプリカ)を取り囲むように16本の噴水が景観噴水とムービング演出を交互に繰り返し、訪れた人々を楽しませている。(※夕方から噴水のライトアップ有)

▲他にも、やなせたかしが愛用していた帽子をモチーフにした休憩所の大屋根や…

▲彼が作詞した「♪手のひらを太陽に」のメロディをモチーフにしたカラータイルと、掌を形どったベンチなどが設置されている。

▲ドラマでお馴染み、一人では出来ない「ギッコン、バッタン」のシーソー。ドラマでは、主人公二人の関係を暗示するよう効果的に用いられている。

▲ちなみに「ギッコン、バッタン」は、実際に柳瀬兄弟が幼い頃に名付けたシーソーの呼称である。

▲弟に劣等感を抱く一方、終始弟のことを思いやっていたたかし。やなせたかし著「やなせたかし おとうとものがたり(フレーベル刊)」の中にその想いが綴られている。

▲その世界を紹介したものが、鉛筆の先の形をしたポンプ室の壁面に掲げられている。ちなみに掲げられている陶板の高さは、子どもの目線に合わせ低く設定されている。
舟入川は 後免町の発展に欠かせなかった

▲やなせライオン公園の横には舟入川が流れている。冒頭で紹介したように川は人工の水路であり、農産業以外にも後免町の商業発展のためには欠かせないものだった。

▲元を正せば、物部川上流(山地)から切り出した大量の木材や米などを筏に積んで下り、後免町で舟に積み替えた後、高知城下のはりまや橋辺りまで運び…

▲帰りは舟で様々な生活物資などを積んで舟入川を遡り、再び後免町で筏に積み替えた後、物部川を通じて山間部へと運んでいた。そのため後免町には製材所が多く存在し、製材の町として発展していた。

▲これは柳瀬医院近くの舟入川の水路分岐点である。三つに分かれ町中へと流れ、人々の暮らしを潤してきた。



▲これらの光景は…この町は都市計画策定より町が(急速に)発展したため、人々が限られた土地の広さをカバーするよう工夫を凝らしてきた名残り。

▲在郷町※として発展してきた御免町は新旧が共存する町並みを形成している。(※農村部などにおいて中心となる施設がなく、商品生産の発展に伴って発生した町のこと)
《次回予告》やなせたかしが愛した 後免町






コメント
高知で生まれ育っていても後免の町の名の由来はたぶん授業で習った覚えもないなあ
物心がついた時分には「ごめん」の呼び名は「謝り言葉」の音と一緒で面白い地名だなと思い身近な大人達にどうして「ごめん」という地名なのかを問うたね
その昔に税が免除されていたことによるらしいとの説明を受けて「そうなのか」という位でことさら深く調べもせずそれなりけりで暮らしてきて人生黄昏に近づいた老残をさらす身
当ブログから「ごめん」は江戸時代の初め地域発展を期してこの地への入植者に150坪の土地を与え永代年貢を無償とし諸役・諸税を御免としたことが名の由来で明治の御代に御免町が後免町と字面を改め今に至ると詳しく知った次第
高知出身が聞いて呆れるお粗末さじゃねえ
恥ずかし恥ずかし
ところで見慣れた「ごめん」の町は民家がギュと集まった街並みのところというのがずっと前からのイメージやったけんど集落の設立時は入植者に150坪の土地が与えられていたんやねえ
今現在の宅地の基準でいうたら150坪は存外広いぜねえ
150坪といえば1反の半分で5畝の広さになるけど香長平野の片隅の我が在所では5畝のことを「きたなか」と呼んでいたよ
昭和50年代あたりまでは聞いたかなあ
明治生まれの古老からはよく聞いたけど昭和生まれの人からはまず聞いた覚えがないという言い回しなんやが
古老たちは田畑の広さを言い表すときに「どこそこのキレ(田畑の場所)は1反キタナカばあよ」などと言っていたもんじゃった
今はもう使われない土佐弁やろうねえ
地域発展創生の意図の甲斐があって人がドンドン集まってきて広い区画が小分けにされ込み合ってきていた「ごめん」の町もシンボルロードが通り抜け往来の利便が高まり
やなせさんにゆかりの公園が作られ母校の小学校も海洋堂も鉄道・電車の始発・終着駅も十分歩いて回れるほど近接しているコンパクトな街としての利点があるぜねえ
いよいよ佳境に向かう朝ドラが来訪者を増やしてくれると嬉しいがねえ
早速ご覧いただきありがとうございます。
「ごめん」の呼び名はその「珍しい地名」が、知る人ぞ知るで全国に名を轟かせています。
一方で、今回の朝ドラで初めてその名を知ったという方も多いことでしょう。
この「ごめん」という音の響きには「謝罪ではなく」別の意味があり、
それが基で形成された「在郷町」だということがよくお分かりいただけたのではないでしょうか。
(※実は私も取材を通じて初めて理解できた次第です)
実際に町を散策すると、現在でも中心部から水面の波紋が広がって行くように周辺へ新しい民家(町並み)が形成されていってます。
これは非常に興味深い現象でした。
ぜひこの機会に、県外の方にも体感していただきたいです。
これまで色々な町や村を訪れ取材してきましたがそれぞれに特徴があり、
こんな風に高知県が成り立っているんだなと驚かされっぱなしの日々です。