
この記事の公開日:2025.07.10
▲前編・後編に分けてご紹介する「土左日記と紀貫之の物語」は、まず1,100年前の奈良時代~平安時代に遡ります。そして土佐の都国府として栄えた地域を訪れ、貫之公が土佐で過ごした古の時代に思いを馳せてみました。








▲高知県南国市に「土佐のまほろば※」と呼ばれる比江地区があります。(※まほろば=優れたよい所)

▲比江地区には国府として栄えた「比江廃寺」、西隣の国分地区には土佐「国分寺」が造営され、都と地方を結ぶ「官道が」が整備されていたという。







雅なる「まほろば」に 平安時代の世界観を再現


▲紀貫之の国司としての功績や善行などの業績を称え、貫之公が京都に住んでいた頃の思い出(世界観)を「紀貫之邸跡」の隣に再現した庭園が「古今集の庭」である。



▲庭園には「古今和歌集」の中で詠まれている草木を植え、「古今集の庭」と称して貫之公の偉業を称えている。

▲また曲水※が設けられ、平安時代の風情を一層醸し出している。(※曲水=朝廷や公家の間で行なわれた年中行事のひとつで、曲がりくねった小川に沿って参会者が座り、流されてきた杯が目の前を通り過ぎるまでに詩歌を詠み、杯の酒を呑んでから杯を再び流すもの)


▲庭園は「古今集草花の庭」と…


▲「古今集樹木の庭」という二つのテーマで展開されている。

▲歌人としても名を馳せた紀貫之を物語るかのように、庭園のいたるところに和歌が散りばめられている。(※一部、一般投稿の和歌も掲示)

▲庭園に建立されている(数ある)石碑のひとつに、貫之公が詠んだ和歌二首が刻まれている。

▲歌は土佐を離れる際に詠んだもので、一つは冒頭に紹介した「みやこへと…」で始まる亡くなった愛娘を偲んだ歌、もう一つが上記の「さをさせど…」で始まる地元民たちへの感謝の歌である。

※ちなみに「和歌・短歌・俳句・川柳」の違いは上記の通りである。
「国司の館跡」は 「紀貫之邸跡」として親しまれている

▲庭園の南東側にあるのが、紀貫之が住んでいた国司官舎(※現代の知事公舎)の跡である。

▲国司の中でもとりわけ著名だった貫之公にちなんで「紀貫之邸跡」と呼ばれている。
秋には 絵の具を垂らしたような光景が広がる


▲秋が深まってくると園内一帯は色づき始め、目にも艶やかな光景へ…


▲艶やかな光景は、園内だけでなく周辺にも及ぶ。

▲収穫が終わった田園は、秋桜の紅色の絨毯が敷き詰められた光景へと変貌する。



▲静寂という名のBGM⁉。とても贅沢で長閑なひとときが過ぎていく(※個人の感想です)
満開の秋桜の中で「土左日記 門出のまつり」が…

▲秋桜が咲き誇る頃、紀貫之邸跡(国司館跡)では土佐国司で歌人だった紀貫之を偲ぶ「土佐日記門出のまつり」が開催される。(※2025年は11月9日(日)開催予定)


▲普段物静かな田園地帯は、(一年で)一番賑わう一日を迎える。

▲「少年よ、独りで何を思うのか⁉」…少し気になったのでパチリ‼

▲親御さんたちも我が子⁉の晴れ姿をパチリ‼

▲会場の一角では、紀貫之や国府史跡をテーマにした俳句コンテストの入選・入賞作品の発表も行われた。(※入賞・入選作品は、一年間古今集の庭に展示される)
春には 満開の桜が 微笑む!?

▲秋桜の時期から5ヵ月後。季節が少し暖かくなり始めると…今度は園内が再び雅な光景に包まれる。


▲いくら桜の時期とは言え、ここは俗っぽい観光地ではないので訪れる人たちは限られる…

▲ゆえに喧騒の中での花見ではなく、ゆったりと花を愛でることができる⁉
土佐最大の高さを誇る 塔が…

▲紀貫之が居た国分廳※は、現在でも比江山南南方の住宅街の一角でその跡が見受けられる。(※廳=庁とも書く。役所のこと)

▲ちなみに比江山とは、貫之公が(滋賀県西部~京都府北東部にまたがる山の)比叡山にちなんで名付けたといわれている。

▲國分廳があった場所は、現在「比江廃寺(塔)跡」と呼ばれている。広場の中央部に現在も遺る大きな礎石は柱の土台だった石である。(※塔の史跡としては、高知県で唯一国史跡に指定されている)

▲礎石の穴の直径が81㎝あることから、建物は高さが32mを越す五重塔であったと推測されている。

▲なお中心部には、舎利孔と呼ばれるお釈迦様の骨を納めるための穴も設けられている。

▲発掘調査の結果、法隆寺と同じ形式の寺院がこの地に建てられていたことが明らかになっている。何とも浪漫あふれる話ではないだろうか⁉
田んぼの中に 土佐の中心地だったところが…

▲苺や胡瓜などが栽培されるハウス群と広大な田園の中に、ポツンと佇む1本の標柱がある。国衙(国庁)跡を示す標柱である。


▲この辺りには土佐の国庁が設けられていたといわれている。


▲その国庁の正確な位置は特定されていないが、標柱がある場所の地名が国庁と呼ばれ、さらに周りにクゲ・国庁前・神ノ木などの地名があることから、この辺りが国庁跡だと推定された。

▲なお1963年(S38)に県指定の史跡となり、土佐国衙(国庁)跡の標柱が建てられた。

次回は…

▲土佐の守を4年間務めた紀貫之が、いよいよ帰京するときがやって来た。

▲一行は、まず室津(室戸市)の地を目指したが、その船旅は必ずしも順風満帆ではなかった…
コメント
ひなびたなどと今でも使われる田舎を言い表す「鄙(ひな)」にかかる枕詞に「天離る(あまざかる)」があるけんど
四国の住民である老生は「あまざかる」とは西行法師や松尾芭蕉が遠路出かけた奥州みちのくの地のように京やお江戸の都からはるばる出向いたときの表現と勝手に思い込んじょったのよ
けんど千年前とはいえ紀貫之は任地の土佐から都に帰るのに二ヶ月近くを要したらしいやか
往時土佐は京の都からみて立派な「天離る」鄙の地やったわけよねえ
我が身の住む場所の立地実態を棚に置き「みちのく」の地が天離る鄙の地よなどと
どんだけ思い上がった郷土意識かとお恥ずかしい限り
主に船旅の二ヶ月近く
今ならクルーズ船の世界一周の旅の期間やろうか
優雅でぜいたくな旅を想像するけんど千年以上前の風頼りの船旅は命がけの旅やったろうき現代人にはちょっと想像できん緊張感のある命がけの旅やったろうねえ
かてて加えて
国司は何となく知っていても国衙と国庁に国府と国分の区分とか
土佐日記の「さ」は人偏なしの「左」で土左日記であるとか
高知の青柳の銘菓の名も「土左日記」であったとかフタの裏には任地で亡くした愛娘を残して帰京する後ろ髪をひかれる心境の和歌が書かれてあったとか
和歌と短歌や俳句と川柳の構成要件
などが判然とし目から鱗
さらに致命的な国分と比江との地理的認識のズレの判明で冷や汗
土左日記や紀貫之のことなら土佐人ならたいがい知っちゅうぜよ
なんぞという自惚れは吹き飛んでしもうた
いくつになっても学びは大事と思い知らされたブログやったわ
土佐が文献的に歴史に早く名を残せたのは紀貫之の土左日記があったればこそやろうき高知にとってはこじゃんと大事な時代遺産ぜねえ
ブログ氏の表看板の土佐日記
ようこそ今回土左日記を取り上げてくれたねえ
今後もおりゅうし土佐日記をやってや
続きも楽しませてもらいたい
いつもご覧いただきありがとうございます。
「国府と国分」の違いや「土佐日記と土左日記」の違い「和歌と俳句や川柳の違い」etc
今回取材して私も初めて知ること(目から鱗)が多かったです。
具体的にいうと、「土左日記」は土佐から京までの帰路に綴った日記という認識だったのですが、
書かれたのは帰京後であり、内容は単なる旅日記ではなく、心の機微を表した文学でした。
そして根底には、失くした愛娘への哀悼の意が深く関わっていたということです。
さらに、帰京の(当時の)船旅は過酷を極める命がけの旅でした。
現代では想像を絶するものがあります。
貫之公が如何に土佐の人々に愛されていたのかなど、
帰京の旅のエピソードについては次回の後半でより詳しくご紹介する予定です。