この記事の公開日:2024.11.11
▲四国遍路はどこから始めても、また区切り打ちでも構わないといわれている。
▲高知県内の全札所16ヵ寺の内、室戸市~高知市の11ヵ寺を巡る遍路旅を再開し年内に種間寺(高知市)を目指します。
※地図の黄文字は紹介済みの場所です。
左から…国分川・県立歴史民俗資料館・岡豊城跡・国分竹灯り会場・やなせたかし駅前公園・海洋堂・舟入川・ごめんなはり線・上岡山・のいちあじさい街道・三又・創造広場アクトランド・三宝山展望スポット・のいち動物公園
樹々に囲まれた 大日寺
▲大日寺は、三宝山の中腹に位置している。ただし中腹といっても、眺望が見られるわけではない…
▲上り始めて300m弱で、山門(仁王門)に辿り着く。
▲参拝には、階段(60段弱)を上って行く他に…
▲駐車場脇からスロープ状になった参道を通って、本堂や奥の院へ行くことも出来る。
▲この寺は聖武天皇の勅願を奉じ僧:行基が開山した後、弘法大師(空海)が繁栄させたと伝えられている。しかし明治初頭の神仏分離令により廃寺となり、その後(明治中期)に再興されている。
▲釘を一切使わず木組みで造られた本堂(※1997年再建)。屋根が反った形状が平安時代の建物の特徴を示している。
▲地蔵菩薩をお祀りする六角堂(※1986年建立・護摩堂を兼ねる)。
▲弘法大師(空海)を祀る大師堂(※1984年建立)。大師像は、土佐二代目藩主:山内忠義(※居城の河内山城の名を高知城と改めた人物)が寄贈したといわれている。
▲木調が真新しい新鐘楼堂(※2024年6月再建)。
▲四季折々で変化する美しい光景が、旅に疲れた⁉お遍路さんたちを和ませている。
言い伝えがある 奥の院
▲仁王門(山門)より東方に行った所に奥の院がある。
▲この場所には、元々楠の立木に弘法大師(空海)が爪で彫ったと伝わる薬師如来があった。
▲しかし明治初年の台風で倒れてしまった。そこで跡地にお堂を建立し倒れた楠を霊木として安置している。
▲ちなみに爪彫薬師は、首から上の病にご利益があるといわれている。
▲願いがかなった際には「願ほどき」で穴の開いた石を奉納する習わしがある。お堂の脇にはたくさんの小石が置かれている。
▲お堂付近の岩からは弘法大師(空海)の御加持水と呼ばれる清水が湧き出している。過去の干ばつの際でも涸れたことがないという。
絶景は 三宝山展望スポットから
▲札所からの眺望は望めないが、三宝山南西側からの眺めは必見である。
▲元々スカイラインだったので道路事情は申し分なし。【絶景かな! 三宝山のスカイライン(香南市)】← 本サイト内で、最も閲覧されている記事である。
国分寺近くの道中で 懐かしい味に出逢った
▲四国全域を制覇した長宗我部元親の物語① 岡豊城跡散策はこちら。
▲国分寺近くではお遍路さんの接待のために、明治時代から受け継がれてきた銘菓が販売されている。
▲それが「へんろいし饅頭」である。
▲甘藷から作られた白下糖を用いた素朴な色合いと味が県内外の人々から親しまれている。
▲ちなみに「へんろいし」とは、この辺り(下末松地区)の別名のことである。
田園地帯の中にある 国分寺へ
▲国分寺は聖武天皇が発した「国分寺建立の詔※」により全国に建立された国分寺の一つである。(※諸国でもっとも良い土地を選んで建てよという聖武天皇の勅願)
▲寺は度々兵火に遭い荒廃したが、室町末期に長宗我部氏の庇護により本堂を再建。後に土佐二代目藩主:山内忠義が仁王門(山門)を寄進した。
▲参拝前には必ず身を清めるのが作法。正式な作法はこちらからご覧ください。
▲土佐国分寺の梵鐘は平安時代前期に作られ、高知県では最古だといわれている(※国の重要文化財)。
▲この札所では、大人の事情により参拝者は鐘を撞くことが出来ないのでご注意を…
境内全域が 国の史跡に指定されている
▲長宗我部氏が再建した金堂(本堂)。杮葺き※や寄棟造りなどが特徴的な建物で、国の重要文化財に指定されている。(※金閣寺や銀閣寺などと同様で、突起物が現れず平面的に見える屋根のこと)
▲1634年に建立された後、1960年の修理で杮葺きから銅板葺きに改修された大師堂。
▲この寺に最初に住した高僧「行基」を祀った開山堂である。2024年1月に改築された。
▲創建当時の塔心礎を主石とした杉苔が美しい庭園で、別名「土佐のこけ寺」とも呼ばれている。
役目を終えた 地蔵渡し
▲国分寺駐車場から南方300mに位置する堤防脇に、地蔵渡しと呼ばれる場所がある。
▲1897年に国分川に橋が掛けられるまで、人々は川の中の浅い場所を歩いて渡っていた。そのため、お遍路さんの道標的な存在となっていた。
▲元々は地蔵菩薩(1810年の刻印有り)のみが鎮座しているだけだったが…
▲昭和末期に、信者たちの手によりお堂が建てられ、さらには平成半ばに現在のような姿へと改修された。時代は変わっても景物詩的な景観を創っている。
次回は 紅葉が見事な竹林寺へ
▲次回は、この時期(晩秋)の光景が美しい第三十一番札所:竹林寺」を訪ねます。(※善楽寺はその後の回でご紹介)
▲さらに、はりまや橋と竹林寺を舞台にした悲恋物語の顛末もご紹介します。
コメント
字面からしてありがた味のある三宝山
その中腹に位置した大日寺
行基さんが開山したとなれば遥か奈良時代からの歴史を紡いできていた古刹じゃろうに
ここでも御維新後の神仏分離令の波をかぶり廃寺の憂き目にあい明治中期に再興とはいやはやとんだ災難
神様と仏様が同じ場所で祀られていて何が不都合やったのか?
何かというと西洋かぶれの明治政府
本邦の歴史ある風習を旧弊とみてバチ当たりなことをしたもんよ
止めろと立ちふさがった一言居士はいなかったのかねえ
国分寺は諸国でもっとも良い土地を選んで建てよという聖武天皇の勅願で建立されたということは南国市の国分寺の辺りは奈良時代或いはそれ以前から土佐の国の要衝の地一等地であったということかねえ
今でも東西南北ええ景色の処よねえ
へんろいし饅頭とは懐かしい
国分寺周辺に行くなら「へんろいし饅頭」は外せんぜねえ
老生の母方の祖母は「へんろいし饅頭」と同じ風合いの饅頭を難なく作れる人やったわ
おくどに羽釜をかけ蒸し器でおりゅうし作ってくれた記憶があるけんど毎度食べるに没頭してついぞ材料・作り方は覚えず仕舞い
男の孫なんぞは食いがっしょうでしようの無いもんじゃね
へんろいし饅頭は懐かしさもひとしお
祖母を偲ぶよすがにもなって店の近くを通る際は立ち寄らずにはおられんわ
せいろで沢山作り「吊りぞうけ」に入れて保管してくれていた日々が今でも思い出されるわ
お遍路さんの旅が生来の食い意地の話に移り変わる不信心
ホトケの許しを請わねば
いつもご覧いただきありがとうございます。
既にご存じかもしれませんが、「神仏分離令」について補足説明をさせていただきます。
明治時代初期に政府は、(神道を国教化するという)理想実現のため、それまで広く行われてきた「神仏習合」を禁止しました。
つまり「神社と寺院」を分離させ、それぞれを独立させたのです。
そして、「王政復古」や「祭政一致」等の理想実現のため「神道国教化」の方針を採用しましたが、実際には…
(1)神道の伝統や性質上において、宗教化・国教化は正確には困難である。
(2)西洋列強が行う布教活動の盛況さへの危機意識により、僧侶との協力がなくては日本特有の風土を守れない。
等の実情により、数年後に政策は放棄されたようです。
「神仏分離令」の影響により国内の寺院の多くが廃寺となりました。
「その後復興されたもの」「現代では廃寺となり姿を消したもの」等、寺が別々の運命を辿ったのはご存じの通りです。
なお「寺」と「神社」の違い等については、今後の「遍路旅」の中で触れていく予定ですので是非ご覧ください。