何処を見据えて 何想う? 桂浜の龍馬(高知市)

高知市
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この記事の公開日:2023.11.10

11月15日坂本龍馬生誕急逝きゅうせいした日なのをご存じだろうか⁉

龍馬高知の景勝地:桂浜かつらはまに建つことは有名な話だが…は見上げなければいけないほど高い位置にある。

▲そこで真横に立ち、龍馬同じ目線で眺められたら…

▲今回は、そんな「龍馬像」と「桂浜」について、様々なエピソードを交えご紹介します。

ところで 桂浜には こんな施設が…

▲この春、40年振りリニューアルした商業エリア県特産を使った和洋折衷建物が立ち並ぶ、その名も「桂浜:海のテラス」だ。

▲浜には、SNS話題の「ハマスイ」こと「桂浜水族館」がある。館内から桂浜太平洋が眺められるのが特長だ。

西隣の小高い山の上には浦戸城うらどじょう跡が遺っており、その一角には坂本龍馬業績を分かりやすく紹介する「県立:坂本龍馬記念館」が設けられている。

桂浜西端にある 龍王岬まで歩いてみた

▲マス媒体度々たびたび登場する光景がこれだ。

▲目に飛び込んでくる雄大な光景に人々はうっとり!?

▲まず、浜の右手に位置する龍王岬りゅうおうみさきへ歩いてみた。

▲遠くは室戸むろとまで見えるビューに感激

龍馬像が建立された「きっかけ」と「有志たち」

▲幕末、薩長同盟成立させ船中八策せんちゅうはっさく起案無血大政奉還たいせいほうかん実現した坂本龍馬

▲しかし大正時代末期まで、世間では認知されていなかったのだ。そこで後世になり、龍馬功績世間に広く知らしめたいと、県内4人大学生らが銅像建立運動を起こした。

募金活動の末、1928年(昭和3年)ついに高さ5.3m・台座の高さ8mの桂浜に造られた。

除幕式には軍艦:浜風投錨参列とうびょうさんれつ祝意を表した。ところで、戦時中金属供出が叫ばれ銅像例外ではなかったが龍馬像免れた理由は、海援隊創設したので「海軍の父呼ばれていたから」だと推測されている。

気象条件厳しい土佐において劣化を避けられなかった。そこで、平成を生きる青年たちは全国から修復資金を募る活動をした。結果、目標額を大幅に上回る浄財が集まり1999年修復された。

龍馬に大接近

龍馬像の横に立って「龍馬の目線太平洋(彼方)を見てみよう」という期間限定の催しが、2023年11月19日()まで実施されている。

▲そこで、やぐら天辺てっぺんへ上ってみた。

▲ところで、有名なこのポーズ撮影長崎のスタジオで1866年(または1867年)に行われた。左右の足クロスしているのがお分かりだろうか!? (※撮影許可を取り公開しています)

の上から見た龍馬像足元組んでいなかったことが判明、とても貴重な体験となった。

龍馬(像)が見つめる その先は…

桂浜に建つ龍馬像だが、「龍馬像は何処を向いているのか?」について論じられることがあった。

大海原にあるアメリカ?、はたまた室戸岬たたずむ幕末の同志:中岡慎太郎なかおかしんたろう像?、芸西村げいせいむら琴ヶ浜ことがはまに佇む妻:りょうの像?etc…。

▲答えはいずれもNO」だ。まず太平洋向きが違うし、中岡慎太郎像建立は1935年(S10)、お龍像建立1993年(H5)である。しかし、龍馬像建立されたのは1928年(S3)なのだ。

▲ゆえに、正解は「身体皇居目線わずかに太平洋向き」なのである。(※像の作者:高知県宿毛市出身の肖像彫刻家:本山白雲もとやまはくうん氏談より)

(妻)お龍が見つめる その先は…

▲ところで、桂浜から(直線距離で)22km離れた琴ヶ浜(芸西村)には、龍馬が愛した妻:お龍とその実妹:君枝きみえ姉妹像が建立されている。(※琴ヶ浜姉妹像に関する詳細はこちらから)

▲ちなみに、お龍が優しく手を振りながら見つめるそのには、桂浜に建つ愛する夫:龍馬像が佇んでいる。こんな粋なことが出来るのも、海岸線弧を描いているからである。

惨劇は突然に…

1867年11月15日(午後9時過ぎ)、惨劇は起きてしまった。刺客に襲われた龍馬中岡慎太郎龍馬その場息絶えた。奇しくもその日龍馬33歳誕生日でもあった。(※慎太郎はその二日後に没)

▲これは、その事件現場となった近江屋おうみや(京都)の部屋再現したもの。龍馬は本来近江屋土蔵隠れ家としており、万一の場合にはにある寺の墓地逃れることになっていた。

▲しかし、暗殺される三日前から風を患い母屋おもやの2階にあるこの部屋移っていたため、事件遭遇してしまったのである。

龍馬慎太郎斬殺ざんさつされた部屋にあった貼交屏風はりまぜびょうぶ(複製)である。慎太郎に近い位置にあったといわれ53滴血痕が付いている。

エピローグは今も そして未来へと続く…

龍馬銅像当時には大き過ぎ桂浜まで大型船運搬するしかなかった。到着後丸太を転がしながら運び上げ、その丸太流用滑車吊り上げたのだった。

▲「次は日本の洗濯ぜよ!龍馬が遺したこころざしが、現代日本において活きていることを信じずにはいられなかった

コメント

  1. 吉之助 より:

    高知市の辺鄙な田園地帯で育った老生は地元の保育園や小学校に通ったけど春の遠足はたいがい桂浜だったような記憶が
    高知市内とはいえ田舎の住民からしたら桂浜はよそ行きの服を着てお町を通り抜けて行くはれの景勝地やったわ

    母親に子供の頃聞いた話では田舎のことなら戦前も遠足といえば桂浜が定番で往時は父兄以外の地区の大人たちも子供らの遠足に大勢同行したもんだったらしいよ
    子供の遠足をだしにした地区の大人たちのレクレーションだったんかねえ

    とにもかくにも桂浜なら龍馬像
    老生の生まれるずっと前からある龍馬像やから随分昔に建立されたものだと思って見上げたもんやが昭和四十年代始めの中学生時分に龍馬像の建立に奔走した入交さんという方が御健在と知って驚いたことがあったわ
    テレビで見たと思うけどかくしゃくとした初老の紳士だったよ
    龍馬像建立から四十年ほど経ってた勘定で十幾つの子供には四十年前といったら戦前やし親たちの生まれた頃のことやから像建立は随分昔に感じたもんだったわ
    それが今では百年が近いらしく時の流れのなんと速いことか

    龍馬が京都近江屋で斃れたことは映画・テレビなどで見聞きしてきているけどそも近江屋は何屋さんなの?
    なぜ龍馬は近江屋に隠棲してたの?
    映画演劇で演じられる惨劇の凄まじさに気をとられ近江屋に意識はとんと向かず仕舞いだったなあ
    龍馬さぁ~ん!

    • OIRA OIRA より:

      ご覧いただきありがとうございます。
      そういえば、桂浜は高知市内の小学校が訪れる先の定番でしたね。
      学校から貸切バスで出かけ、松並木と海が見えてきたとき何か別世界へ来たような感覚になったことを今でも覚えています。

      ところで、近江屋は由緒ある醤油屋で土佐藩の御用達でした。
      近江屋と土佐藩邸は道を挟んで向かい合っていました。
      それらが縁で土佐藩武士たちの滞在先になったそうです。
      なお、店は戦後に廃業となり、(店舗は)現存しておりません。