
この記事の公開日:2025.08.09





戦中 政府は庶民に対し…






狙われた 掩体1号

▲現高知龍馬空港は、元々偵察搭乗員養成のため終戦前年の3月に士官・兵員と、(後に悲しい運命を辿ることになる)白菊などが配備されていた。(※白菊隊の詳細はこちらから)

▲周囲には、飛行機を攻撃から守るため掩体(41基)が造られた。(※前浜掩体群の詳細はこちらから)

▲他の掩体が海向きなのに対し、唯一山向きに設置された1号掩体。そのため1号掩体はグラマン戦闘機の機銃掃射を受けることになった。

▲的を狙い撃ちするためには低空飛行が不可欠。そのため、敵機は山側から海側へ向かって飛行しないとその先の障害物(山)へ激突してしまうのである。(※終戦間際に掩体群は連日300機のグラマンによる激しい機銃掃射を受けている)
掩体4号から 出土品が…

▲掩体4号は唯一双発大型機を格納した、現存する掩体壕では国内最大クラスである。(※掩体4号の詳細はこちらから)

▲その掩体4号の内部から、戦時中の様子を偲ばせる出土品が発見されている。

▲軍刀=壁際に隠すように置かれていた。
▲フォーク(海軍支給品)=柄の部分に飛行機マークがあることから、海軍航空隊のものとされている。

▲青く塗られていることから、海軍の(金属製)食器だったと思われる。

▲ボルト=掩体構築時の部品と思われる。
▲10銭硬貨=戦況の悪化と共に材料や重量が変化していた硬貨。戦争末期には最も軽くなっていた。
その立地ゆえ 狙われた小学校

▲掩体群に囲まれるように建っていたのが旧前浜小学校(国民学校)。往時掩体群への襲撃情報を予め把握できた軍は、襲撃当日を休校にして大きな人的被害を回避できた。ただし、校舎の西半分は吹き飛んだ。

▲その後学校は、町村合併や市制施行などにより大湊小学校に統合された。なお、旧前浜小学校跡は更地や民家に姿を変えたため、当時の痕跡を見ることは出来ない。

▲唯一遺ったのは、そんな運命に翻弄されたという事実だけである。
跡地の 西隣側には…

▲旧前浜小学校跡地と県道を挟んだところに、言われなければ気づかないほどの小さな神社がある。

▲それが招魂神社である。


▲前浜地区の戦没者を祀った慰霊碑などが建立されている。

▲時代という名の大きな渦に翻弄された人々の命運を、次の世代に伝える大切な役割を担っている。

寺の拝殿横に 砲弾が…

▲四国霊場八十八ヵ所の27番札所:神峯寺(安田町)。(※神峯寺・神峯神社の詳細はこちらから)

▲神峯神社は、神峯寺の奥の院として寺の250m上部に位置し…

▲本殿と拝殿を兼ねた全国的にも珍しい建物となっている。その本殿・拝殿の横(※点線部分)には…

▲陸海軍から廃兵器として下付されたものらしい砲弾が奉納されている。このようなものが飛び交っていた時代とは…。
高知大空襲で 失われたものと 遺ったもの

▲現在の高知市の街並み。その中心部でひときわ存在感を放っているのが…

▲県を代表する観光スポット:高知城(※標高45mに築城)である。

▲望楼型天守を持ち、最上階には廻り縁と高欄がある。天守と本丸御殿が現存する国内唯一の城である。(※国の重要文化財・史跡に指定 / 日本100名城に選定)

▲城周辺を含む高知市街は1945年(S20)7月4日、米軍の空襲(※焼夷弾18万発)による大火災で焼け野原と化した。しかし高知城は幾度の空襲の中、奇跡的に難を逃れ続けることが出来たのだった。



TV・映画で度々登場した 玉音放送の陰に…

▲放送中の朝ドラ「あんぱん」でも登場したが…

▲当時、世の情報を得る手段は「ラジオ」か「新聞」がメインで、中でもリアルタイムな情報伝達の役目を担っていたのがラジオだった。

▲1945年(S20)8月15日正午、玉音放送が全国放送で5分間流れた。それは天皇の肉声を前日夜に録音盤に収録したもので、この放送により日本の戦争は終わりを告げた。
玉音放送の有名なフレーズは どこから…

▲四国八十八箇所のひとつに、第三十三番札所:雪蹊寺(高知市長浜)がある。

▲境内(山門横)に、かつてこの寺の住職だった山本玄峰老師の銅像が建立されている。



▲玄峰老師は「本土決戦になれば国家は破滅する。救う道はただひとつ、今すぐ無条件降伏するのみ」と喝破していた。その老師の許には、多くの政治家が会いに来ていた。

▲その老師が唯一出かけて行ったのが、東京の鈴木貫太郎宅である。1945年(S20)3月25日、貫太郎に総理就任の話が持ち上がっていた。彼が悩んだ末に相談した相手が玄峰老師だった。老師は「戦争を止めさせるため、引き受けなさい」と言ったという。

▲(終戦前月)老師は鈴木総理宛てに「これからが大事な時です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで体に気をつけて…」という手紙を送った。(翌月)8月15日正午、(前夜録音した)玉音放送が流された。その中に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」というフレーズが盛り込まれていたのはご存じの通り。

▲時は経ち、季節が夏から秋へと変わり…

▲雪蹊寺の境内が色づき始める頃、何処の誰かの思いやりなのか分からないが…

▲老師の頭に手編みの帽子が被せられている。
今を 再び戦前にしないために…

▲長い時の中において歴史は繰り返される。だが、繰り返してはいけない歴史がそこにある。

▲今も世界の何処かで正義の名の下争いが続けられている。一体人間は過去から何を学んだのだろう⁉

▲私たちは、今を決して再び日本の戦前にしないために…
コメント
我が国の八月は特に昭和二十年の出来事に収斂される重いテーマを抱えた時季よねえ
現今の人口構成統計を冒頭に掲げた戦後八十年を迎える今年の八月の戦争遺跡ブログ
すでに戦前・戦中生まれの人口割合は1割を切ったと知って日頃漠然と意識する程度の現況が歴然として吐胸を突かれる思いがしたよ
戦前・戦中の生活体験を知る人士は今では八十歳代半ば以上の年齢の方々と想察すると貴重な実体験を語れる方々の人口割合は更に少ないと了知するが相当よねえ
時代時節というけれど間もなく語り部はいなくなり戦争遺跡だけが往時を物語るというときがくるがよねえ
老生の口癖である俳人中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句は明治を過ぐることわずか二十年そちこちしか経っていない昭和初期の句らしいがその伝でいくと先の大戦は遥か遠くなりにけりの感一層じゃね
戦時債権
配給制に関する文物・戦時中の女学生で学徒動員させられで風船爆弾を作ったという我が母も付けたかと思しき勤労動員者の名札
日章に今も残る敵艦載機の機銃掃射を受けた国内最大級の掩体と海軍軍人が使ったであろう戦時の生活用品など
掩体襲撃の巻き添えをくらい被災して戦後には廃校となる運命をたどった小学校跡地の現況と近隣の招魂社
四国霊場の札所に奉納された見る者をしてすくますような往時の砲弾
町が壊滅する空襲の戦火の難を奇跡的に逃れ得た全国に数少ない幕藩時代の天守・御殿の建物が残る高知城の歴史博物館に残る焼け野原となった高知市街の映像
終戦を告げた詔勅に進言した文言が取り入れられたといわれ昭和天皇の信任が厚く終戦を成し遂げた鈴木貫太郎総理と親交があった高知市にある札所の住職であった老師の存在
今回のブログで取り上げられている我が国にとって重い災禍の残照を今に示す事蹟の数々
まず鎮魂の祈りを捧げたい
今年も来し方行く末を熟考すべきときとなってきたねえ
早速ご覧いただきありがとうございます。
戦前・戦中生まれの人口割合は1割を切り、リアルな体験を語れる方々も少なくなってしまいました。
仰るように「戦争遺跡だけが往時を物語る」明日になることを避けることは出来ません。
今を日本の新たな戦前にしないために「今の世を生きる私たちが何をしなければいけないのか」が問われていますね。