この記事の公開日:2025.07.24

▲今回は「土左日記と紀貫之の物語」後半をご紹介します。








▲国司の任務を終えた貫之公が帰京する際の足跡(縁の地)を辿り、古の時代に思いを馳せてみました。




▲貫之公が住んでいた国司官舎(※現代の知事公舎)の跡は「紀貫之邸跡」と呼ばれている。

▲邸跡にある碑には、土佐を離れる際に詠んだ和歌が二首刻まれており、その一つが上記の歌である。

▲帰京する(当時の)船は簡素で荒天に遭えば簡単に転覆しかねない、危険な旅だったという。

▲日記の全編には、赴任先(土佐)で亡くした愛娘への哀悼の念が散りばめられている。
国府を 発ってはみたものの…


▲貫之公一行は承平四年(934年)も残りあと僅かになった頃、国府(南国市)を発った。

▲向かったのは、船出場所の舟戸(高知市大津)である。

▲「津」ということは、当時この辺りは海だったのだ。

▲近隣にふたつのバイパスができるまで、高知市と南国市を結ぶ交通の要だった国道195号。

▲舟戸電停近くの壁面には、貫之公が帰国の第一歩を踏み出した場所だった旨を紹介する看板が掲げられている。

▲国府から多くの人々が見送りのため付き添ってきた。そして送別の宴を開き一行はこの地で、結局4泊間碇泊したという。

▲その後、新任国司の送宴に出席するため(一旦)国府へ戻った後、翌日再びこの地へ戻ってきて1泊し、近くの鹿児(鹿児神社辺り)に立ち寄ることになる…。

▲舟戸の舟入川を跨いだところ、大津小学校の校門付近に「紀貫之 舟出の地」の碑が建っている。

▲碑は元々鹿児にあったのだが「’98豪雨(1998)」による舟入川の改修に伴い移転してきた。
別離を惜しむ人々は さらに…

▲その舟戸から少し下った場所にある鹿児。

▲当時この辺りは浦戸湾に長く突き出た半島の西端だった。


▲別離を惜しむ国衙(南国市)の人々がさらに追い掛けてきたため一行は船を停め、磯浜に降りて再び宴を開きひと時を過ごした。

▲人は、もはや関係が切れた(役を終えた)人物には見向きもしないものだが「人々が見送りに来た」ということは、如何に人望が厚かったのかが伺える。
ついに一行は 大平洋へ…

▲鹿児を後にした一行は浦戸(高知市)で1泊した後…

▲大平洋へ出た後、大湊(南国市)へ辿り着いたが…

▲荒天のため、結局十日間この地で碇泊した。

▲実は、大湊の位置については諸説があり今も不明である。ただ、この辺りが大湊だっただろうといわれている場所に整備されたのが大湊公園である。

▲公園の中央部には、大きな松の樹と二つの石碑が…。
一行は 陸海交通の要 奈半利へ

▲奈半利は昔から陸海交通の重要地点だったところ。

▲一行は船旅の疲れを癒すためこの地で2泊した。奈半利橋の東側には「土佐日記那波泊」と彫られた大きな石碑が建っている。(※写真左端の点線部分)

▲碑は、幹線道路脇でひっそりと佇んでいる。

※ちなみに左隣の碑は、この地が「維新志士 贈正五位 能勢達太郎成章生誕地」を示す碑である。
土佐の東南端 室戸へ

▲室戸市には3つの岬がある。

▲最初にあるのが(室戸市)西端の羽根岬である。一行が国府(南国市)を出て既に3週間経ち、奈半利で1泊した翌日には室津の港を目指している。

▲幹線道路脇にある羽根休憩所の一角には歌碑が建てられている。

▲歌碑には「まことにて 名に聞く所 羽根ならば 飛ぶがごとくに 都へもがな」と刻まれている。この歌は、船中で「羽根」という地名を聞いた女の子が詠んだもの。

▲意味は「本当に羽であるならば、今でも飛んで都へ帰りたい」だが、乗船していた皆がこの歌を聴いて「本当にそうだと強く思った」と日記に綴られている。
停泊の地(其の1) 室津港

▲一行は風待ちのため、室戸では計10日間碇泊している。その一つが室津港であり、随行の船を待つための碇泊を含みこの地で6泊した。

▲港の一角にある井戸が、当時住民の飲料水として利用されていた。井戸には老梅が生い茂っていたため、貫之公が「梅香※の井戸」と命名した。


▲ちなみに、室津港のすぐ近くには「四国霊場八十八箇所」二十五番札所の「津照寺」があるため…

▲港には常時県外ナンバーの車輛が多く見受けられる。
停泊の地(其の2) 津呂港

▲室津港を出航した一行は悪天候により、津呂港へ引き返しこの地で4泊した。


▲貫之公の碑の隣に建っているのが、江戸時代初期の土佐藩家老:野中兼山が執り行った港の開削事業を称える碑である。

▲ちなみに津呂港は古くは室戸港と呼ばれ、航海の難所である室戸岬沖の海難を防ぐ避難港の役割を担っていた。(※現在、海側に室戸岬漁港が整備されている)

岬めぐりの船は行く

▲一行の船は室戸岬を廻り、次の停泊地を目指していた。しかし岬沖はその地形から波風が荒いうえ潮流も相まり、交通の難所といわれていた。

▲荒天に遭遇した船が退避のため、碇泊※したのがこの辺り(※エボシ岩の南西)だといわれている。(※停泊地は諸説あり)


▲ちなみに碑の立つ海食台には、昭和天皇が1950年に訪れた際の御立ち台がある。
船は さらなる困難と直面しながら 都へと…


▲国府から約1ヵ月をかけてこの地まで辿り着いた貫之公一行。

▲この先の船旅は、海賊の出没・幾多の難所・紀伊水道の潮流による太平洋への押し戻しなど、心配事と闘いながら心の休まる思いはしなかった。

▲とりわけ貫之公は、都へ戻れる「嬉しさ」と愛娘と一緒に帰れない「寂しさ」で、心中穏やかでなかったという。
コメント
寄る年波からくる記憶力低下にささやかな抵抗をと始めた鉄道唱歌暗記が東海道篇山陽九州篇奥州磐城篇と進み都合200番をいくつか超えて長崎から青森まで日本列島の背骨踏破にこぎつけた昨年晩秋の頃高知在住の旧友から地元新聞へ90年以上前に今のJR土讃線にあたる須崎から大豊方面に延びた鉄道高知線の鉄道唱歌が作られていてその歌詞が掲載されたと新聞を送ってもらい暗記の延長戦に挑んだのよ
紀貫之が帰京に船出した土佐大津を唄った高知線鉄道唱歌の歌詞は
〽八重の潮路へ舟出せし国司別離の土佐大津・・・
となっていて後免につながり後免では
〽二十九番国分寺・・・とお遍路の続く景色が唄われ
続いて
〽紀貫之の屋敷跡懐にせし土佐日記・・・とこの鉄道唱歌が作られる少し前に高名な俳人が国分・比江を訪ねた際の模様が歌詞となっているらしく前回今回のブログ記事と重なって感慨深いことこの上なしやったわ
しかしまあ土佐人は昔も今も何かがあれば何かがなくても酒盛り大好きな人士なんやねええ感心するわ
そういえば昔勤めていた高知の職場ではかつて
今日は何々の日やき飲もうか
今日は何ちゃあない珍しい日やき飲もやか
などという会話がさいさい交わされていたと先輩諸氏から聞いたことがあったなあ
きっかけがあればそれをダシに無くてもそれをダシにと
何が何でも酒盛りに持って行く気転のききの良さ
下戸の迂生は呑兵衛連中の知恵の働きに感心したもんやったわ
国司紀貫之公が帰京となれば国府で盛大な送別会をやったろうよねえ
見送りと称し船出の地の舟戸へ国府から大勢付き添ってきて今生の別れを惜しんで酒盛りはせずにはすまざったろうよ
ここで涙の別れとなるかといえば新任国司の送宴(って何?歓迎会?)出席のため国府へ引き返し当然酒盛り
再び舟戸へ戻り船出して舟戸の目と鼻の先の鹿児で止まり追いかけてきた国府の見送り人たちとまたまた宴会
へんしも京へいにたかったろうに紀貫之公なかなか帰ることになりませんねえ
「南国土佐を後にして」は先の大戦のころに高知からの出征兵士が異国の戦地で歌った望郷の思いがベースになった歌やと聞くけど
歌詞の二番は
〽月の浜辺で焚火を囲み・・・
とあってこの浜辺はもちろん月の名所の桂浜ということなんやがそうなると宴はつきもの
千年を越える昔
鹿児神社の前の磯浜辺で「南国土佐を後にして」の歌詞と同じような場面があっていたであろうと往時を追懐すれば土佐人の呑兵衛気質昨日今日に始まったもんじゃあないなと感慨に堪えないねえ
公が帰京に際し八重の潮路へ舟出して立ち寄った港はすでに千年余を経て地形が変わってきている所も散見されるのは河川の土砂の堆積変遷や名に聞く南海地震の襲来幾たび
長い時間が過ぎ去ってきているんやねえ
命がけで土佐東部の港に立ち寄りながら風・潮頼りの難航海を続けて帰京した紀貫之公が残してくれた土左日記は高知の宝やねえ
事の善し悪しは別として酒盛りは土佐の飲酒文化で、ご存じのように「おきゃく」という名の下
「昼間から大っぴらに酒を食らう」土壌が基となっていますね。
高知城袂にある有名な某所がその代表格でしょう。
さて、紀貫之公の帰京時に随所で酒盛り(宴)を開いたことに対し、現在では様々な解釈がなされているのをご存じでしょうか。
ある説では「人望が厚かったから…」、またある説では「単なる酒好きだったから…」、はたまた「派手好きだったから…」等々。
今回の取材を通じて、さまざまな説に行き当たりました。
実際のところ、もはや誰も実証しえないほど古(いにしえ)の出来事になってしまいました。
記事では、取材を通じて一番有力だと思われる説を採用しています。